生きやすさマガジン

自分が生きやすく、みんなも生きやすく

ささやかだけれど、役にたつこと、語ること。

レイモンド・カーヴァーという作家の短編作品の一つに『ささやかだけれど、役にたつこと』というものがあります。


何年かに一度この作品を読み返します。私が見ているのは1990年に発行された、村上春樹さん訳のカーヴァー全集3巻に収められたものです。
今日久し振りにこの作品を読み返したのは昨今のネット上でのやり取りを見て「みんながこの登場人物のパン屋みたいになってるな」と気づき、お節介ながら「なんらかの一助になるのでは」と思ったからです。


あらすじはこうです。
8歳の息子の誕生日を迎える母親がパン屋に行って誕生日ケーキの予約をする。
子供は学校の帰りに友達と歩いていると車にぶつかり、その時は普通に歩いて家に帰るのだがその後意識を失い眠ったままになる。
母と父が必死に見守る中、数日の入院ののち子供は静かに息をひきとる。
深い心労のなか家に戻る二人。その時、時おり家に帰っていた時に何度かかかっていたイタズラ電話が(「そうだよ、スコッティ(息子)のことだよ。そうだよ、スコッティーのことが問題なんだよ。あんた、スコッティーのことを忘れちゃったのかい?」と言って電話は切れる)がパン屋の男であることに気づく。二人は問い詰めるために深夜のパン屋へ向かう。
深い悲しみと怒りの状態にあった二人は対面したパン屋の男に向かってことの経緯を告げ(「子供は死にました」と彼女は冷たい平坦な声で言う)、「恥を知れ」という。
それを聞いたパン屋は二人に椅子を進め、知らなかったことを詫びる。そして自分がただ毎日パンを焼くだけの日々であり、人間としてのまっとうな生き方がわからなくなったと言う。


「…あたしはただのつまらんパン屋です。それ以上の何者でもない。昔は、何年か前は、たぶんあたしもこんなんじゃなんかった。でも昔のことが思い出せんのです。今のあたしはただのパンを焼くパン屋、それだけです。もちろんそれで、あたしのやったことが許してもらえるとは思っちゃいません。でも心から済まなく思っています。あんたのお子さんのことはお気の毒だった。そしてあたしのやったことはまったくひどいことだったと」


そう言ってパン屋は二人に焼きたてのパンを振る舞う。
二人は彼の話に耳を傾け、食べられる限りのパンを食べた。明け方まで彼らは語り続けたが、誰も席を立とうとは思わなかった。

 

 


と言う話です。
子供が車に引かれた時、亡くなる時、パン屋の独白、両親の不安、どこを取っても無駄のない静謐なそれでいて不気味で怖く、自分の中にあるいろいろなことを想起させてくる作品です。
可能ならばぜひ作品を読んでいただきたいと思いますが、今回私がこの作品を改めて紹介しようと思ったのはネット上における自分たちの振る舞いがこのパン屋であり子を失った両親の立場にも当てはまると思ったからです。


私たちの多くがこのパン屋のように日々の仕事ややるべきことに従事し、そこに誇りや使命感を持っていればなおさら、自分の成したことを無視されるというのは傷つくことでしょう。
一般的に見れば成した仕事を一方的に無視された側がそれを知らしめる、そして傷つきを癒すことが必要でしょう。パン屋の男だってそこまでの悪人ではなく、ただひたすら続く日々の中で人間らしさを少し忘れてしまっていた。
そんな中二人の両親は子供を失ってしまうかも知れない恐怖と不安、自責、理不尽さに翻弄され、予約したケーキ(他者に課したもの)どころではない。それでも自分たちはこの感情を誰かと共有したくて医師や看護婦や、病院にいた他の家族たちへ思いを課す(強く求めすぎる助けは、わかってほしいという気持ちから起こります。そんななか添えられた手は強く「善意」となります)。


パン屋の男も、子供の両親も、お互いの事情は知りません。人生において起こりうる可能性があることが起きただけなのです。
ただ、この物語においては取り残されたものたちは最後に直接会うことができます。そうしてお互いのことを知り、語り合うことができました。それはとても幸運で、すごく大切なことに思えます。
パン屋の男は自分の話を語ることができ、パンを食べてもらうことができた。二人は自分たちに起きたばかりの人生最悪の出来事を語り、できたての温かなパンを食べられた。


人生とは概ね理不尽で、とてもつなく悲しいことが起こり、「なぜ、どうして」の答えがないこともほとんどです。
どこの誰かもわからない人から唐突な悪意を向けられたり、大切なものが失われたり。
それでもこうしてわかりあうことで、なにかしらの救いがある。
それはとてもささやかだけれど、役に立つこと。
それを知っているだけで、ちょっとだけ人生の理不尽さやままならなさ、もどかしさに耐えることもできるんです。