生きやすさマガジン

自分が生きやすく、みんなも生きやすく

「レンタルなんもしない人」さんの著作を読んで考えた傾聴ボランティアの価値

どうも、傾聴ボランティア団体に所属しているぎりさんと申します。
皆さんは「レンタルなんもしない人」さんをご存知でしょうか。交通費と飲食代(必要なら)だけで一人分の人間の存在を借りることができるというサービスです。


レンタルなんもしない人 (@morimotoshoji) | Twitter

 

 

〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。: スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと
 


そんなレンタルさんの『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。』という著作を読み、今の社会における何もしないことの価値や「ただ話を聞くだけ」に関するところが傾聴ボランティアにも通ずるところがあったのでその辺を書いていこうと思います。


傾聴ボランティアというのは「特定の対象者に対して傾聴をするボランティア」です。傾聴とは辞書的な意味なら「しっかりと話を聞く」というだけですが「それだけで何か変わるの?」と思われる方も多いと思います。
そういう意味ではレンタルさんのなんもしないでただ居るだけにおいても同じことが言えるでしょう。それだけ今の社会は「聞くだけ・居るだけ」といった非生産的なことに対して価値がないと思われています。いちおうボランティアもレンタルさんも「無報酬」ですからこちらもお金目的でやっているわけではないです(もちろんお金が必要ですが、それが目的ではありません)。じゃあなんでやってるんだ、対象者である我々になにをやってくれるんだ、与えてくれるんだとお思いでしょうがそういう彼岸に行くことが大事であるし、まあぶっちゃけ言ってしまえば、もちろん「何か」はあるんですよね。

 

 


【関係性が苦しいんだ】

 


人間関係の話をもう少し続けると、一般的に、大事なことは大事な人、つまり友人、恋人、家族といった身近な人や親しい人にしか話さないものだと思われがちだ。それは子供のときも、大人になってからも変わらない。しかし一方で、人間関係が薄い、もしくはほとんどが無関係な相手にこそ話せる大事になことも、世の中にはたくさんある。僕はそれを「レンタルなんもしない人」のサービスを始めてから知った。
 要は、関係性の深さと話の深さは必ずしも比例しないし、親しい間柄だからといって自分をさらけ出せるかというとそうでもない。むしろ親しいからこそ口をつぐんでしまうケースも少なくないのだ。
 事実、僕のところに来る依頼には「話を聞いてほしい」といった類のものが思いのほか多く、そのなかには「なぜ赤の他人である僕に?」と首を傾げてしまうくらい、ヘビーな告白もいくつかあった。

 


レンタルさんは“相談というのはなにかを期待されている感じがするし、なにかをしているような感じもするので難しいです。話を一方的にただ聞くだけなら可能です”と返しているそうです。
傾聴ボランティアでもこの部分はほぼ同じです。相談やアドバイスが欲しければ専門の機関や身近な直接関わりのある人に言えばいいだけです。そうじゃない何かがあるから無関係の我々に言ってくるんですよね。そのそうじゃない何かのために、我々がいる。そこに必要性がある。サービスとしての価値がある。
…もちろん相談者も混乱していますし、そもそも会話の一発目でそんな心の深奥を述べることなんでまず不可能ですから、話の入りとして「相談がある」という言い方をするのはよくあります。その奥にある何かに早くお互いがたどり着く。そのための工夫を傾聴ボランティア員は学んでいるんです。その工夫、コツこそが「聞く」と「傾聴」の違いであり逆に言えばそれだけ我々が普段やっている「聞く」という行為が余計なノイズ…先入観や思い込み、普通はこうだという概念によって阻害されてるということです。
これを取っ払って聴くというのはとても難しいことだと実際ボランティアをやっていて思います。

 

 


【受け答えの必要性。自己解決を目的としない】

 


このように「何もしないこと」をあえてやるための工夫、というのが必要になってくるのですがそんなレンタルさんでも思わず「やってしまうこと」もあるようです。
相手の話に関心を持ってしまって会話が盛り上がってしまったことがあり、なんもしない線引きはきわめて曖昧であり、、相談に回答や助言を求められる場合はやらないとされています。レンタルさんは「例外としてやることもあるよ」という感じで書かれていますが、でもこれも実は「何もしない」ことで「何かを発生させる」ことにもなるんですよね。
私は以前自分が無くなりたいと思っていました。先入観や思い込みで相手の素直な気持ちを聞くことができないのなら自分というものを消し去ってしまえば完璧な傾聴ができるのではないかと思ったからです。そうして出来上がったものはただの「うん、うん、そうだね」のうなずきマシーンでした。こんな相手に話をしたところで、相談者は「この人全然聞いてくれない、わかってくれない」と思うだけです。


レンタルさんが傾聴ボランティアについて書かれている箇所もあります。

 


「傾聴」という行為には「相手への批判や反論をしない」「聞く側の考えを押し付けない」といったポイントがあるらしい。僕は依頼者が求めるまま、必要がなくなるまで、ただそこにいるだけである。だからこの二つに関しては「〜しない」という部分が、はからずも「なにもしない」僕と重なって、結果的にクリアできている

 


ただその後にも“問題を自己解決できたか否かは知る由もない”と書かれていて、傾聴とは依頼者が自己解決するためのものだと思われているようです。もちろん傾聴ボランティアは自己解決をするためのものではないし、そもそも自己解決をさせようと思って話を聞いていたらそれはもう傾聴ではないんですよね。自己解決させたいというスタンスで聞いていたら相手の気持ちに寄り添えないんです。もちろん結果的に自己解決できればそれでいいのですが(レンタルさんもそう書いている)、そんな簡単にいかないからこそ勇気をふりしぼってボランティアを頼ってくるんです。
傾聴にとっても「なにもしない」を心がけるのはとても大切なことなのです。

 

 


【傾聴や「なんもしない」をすることによる変化】

 


でも、いなくてもいいけれど、そこに誰か一人いることで、依頼者の気持ちに変化が起きていることはたしかなようだ。そう考えると「レンタルなんもしない人」は〝触媒〟みたいなものとして機能しているんじゃないか。

 


傾聴も「なんもしない」も、実際は誰かに話を聞いてもらっているし誰かがそこに居ます。聞いてもらうことで不安や恐怖がおさまり気持ちが安心する。居ることで依頼者にとってはそれが「見守り」「同行」になり何かがはかどったり遂行されたりする。それは苦しみや困難から逃れられる・解決する状態を作り出します。ひょっとしたら立ち向かう勇気すらわいてくるかもしれない。そういった困難や苦しみが今の自分には必要なことであり受け入れ方を変えることで安心が訪れるかもしれない。
そういった様々な変化が期せずして起こる。それを狙ってやることは難しいし、もし狙ってやりたいという所までいけてるのであれば専門の機関を頼ればいい。


そういった狭間にいる人たちにとってただ聞く、ただ居るだけの人たちというのはきっと価値がある。だから困っている人たちを見て「自分はそばにいることしかできない、話を聞いてあげることしかできない」と思っている人がいたら「それでいいんだ」と思ってほしい。それでしかできない何かが、そこにはあるから。