生きづらさマガジン

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生きづらさは権利だ

 

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)

 

 

小野美由紀さんの『傷口から人生』を読み終えた。
彼女のライターとしての記事はよく読んでいて、力強く言葉を出せる人だと感じていた。実際この本も「メンヘラのためのライフハック集」のようであり、自身の感じたことや思いをしっかり分析して言語化することで我々の心を押してくれるような、勇気の出るものだったのだ。


そんな彼女が書いた最近の記事を読み驚いたことがある。

 

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“もっと素直に、自分の思っていることをただ話せる人間だったらよかったのに、と時々思う。爪を塗ったの、見て見て、とか、今日はこんなことがあったの、とか、最近見た面白かった映画のことだとか、何も考えず話せる人間だったらずっと楽なのに。”

 


これだけ自分の気持ちを分析して言語化できる人、なんならそれで多くの人の心を押すことのできる人でも、自分の思っていることを話せないと書いているのだ(日常的な他愛もない会話の方が逆に難しいということもあるだろう)。
そして友人が自身の病気のことを素直に打ち明けてくれたことに嬉び、他者との関わり方の難しさを吐露している。分析し、言語化することに長けた人であっても、だ。

 

 


そういえば今までわたしが開いてきた生きづらさ研究会などでも皆ものすごく分析し、言語化しようとしていた。そういう場であるとわかって来ている人もいたし、そうでない人もすごく考えもがきながら自分の言葉を探していた。


傾聴ボランティアをしていても、話してくる人は自分とその周りのことを分析して言語化することに長けた人が多いと感じている。それだけ自己分析ができて他者の気持ちも考えることができたら、さぞうまく生きてけるだろうと思ってしまうものだが実際はそうではないのだ。
そうではないから生きづらさを感じているし、生きづらさを感じているからこそそうせざるを得ないのだろう。

 

 


前回の記事でも書いたけどこの世界の理不尽さ、不平等や差別意識、そんな諸々のクソっぷりに気づいてしまったらもうのうのうと生きてはいられないのだ。
一体どうしたらいいんだの過程とその末に、この「分析する」「言語化する」がある。
ただ最初に書いたようにどんなにそれが出来たとしても相手・社会が受け止めてくれなかったら気づいてしまった私の苦しみはそのままになってしまう。だから受け止めてくれる人や場が必要なのだ。


何も感じずにのうのうと生きられれば楽かもしれない。ただ、気づいてしまったら元の世界にはもう戻れない。相入れなくなってしまった他者を介しては怒りや懐かしさ、不可思議さを感じるだけだ。
それでもこの新しい世界で、なんとか生きていこうと模索するしかない。分析をし言語化をすることで死ぬまで生きなければならない。


それはのうのうとした人たちが奪えないわたしたちの権利なのだ。そういう思いがあることを知ってくれてたら、受け止めてもらえる。そう信じているからこそ、伝えることができる。


受け止めてもらえないと感じたら、われわれは伝えることをやめる。
そうなった場合どうするかを考えるのも社会の義務ではないかと思う。個人の限界は、社会の限界よりもずっと早く来るのだ。

それも生きづらさに住むわれわれの権利だ。

 

 

 

 

 

 

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