生きづらさマガジン

みんなの生きづらさが集まる場。まずは、自分のために。

ナンパされるかもしれない人を見て、わたしは何を思ったか。

春休みの渋谷の大雑踏の中でもすぐわかるくらい、その子のことが目についた。


無数の頭越しにもわかる身体の倦んだ動かし方、無防備をまとった雰囲気。


“なんか…危なっかしいな”と思って歩いてた矢先に傍にたたずんていたオシャレなイケメンが動き出す。


“ナンパか…”と思った瞬間その男と同時に見るからに冴えない男も動き出す。


“これ…あれか、ナンパ塾というかナンパ教習?みたいな?”


ゆるゆると我々は人波に押されて進み続け、やがて彼女は信号で立ち止まる


“女性に声をかけるべきなのか…?”たぶん彼女は迷惑するだろうと思ったから。


しかし私はそのまま通り過ぎ、その3人の距離感がどうなったかもわからないままふりかえることもままならず結果は波に飲まれこうして思いだけが残った。

 

 


あの時どうすればよかったのか。


渋谷でナンパなんてありふれているし、いちいち気にし出したらキリがない。


そもそもわたしは、これまでその「直情的なおせっかい」で多くの人たちに苦しみを上乗せしてきた。


“苦しいならこっちにくればいい、そこにいてはダメだ”と雨の中にいる相手を、いっしょに濡れることも傘を差し出すこともせず勝手に決めつける。それが相手のためだと思ってた。


「傾聴」は相手の立場に寄りそって気持ちを聞くこと。なんとかしてやろう、解決しようという自分勝手な解釈や思い込みが一番傾聴を妨げる要因になる。それをしないように、ずっとこれまでやってきたのではなかったのか。


その女の子がどう思うか、どういう気持ちになるかなんてわからない。それを言えばそのナンパ師たちだってどういう思いでいるかなんてわからない。
わたしは誰の立場にも寄りそわず、ただ自分の考えだけで行動したがっているだけだ。
もちろんナンパ自体を嫌がっている子がいて、迷惑をしていることも知っている。


だが一体何と言って声をかければいい?
「あなた、ナンパされそうだから注意してください」
それとも声をかけるならナンパ師の方?
どっちにしろお節介焼きの人間で、どちらがどんな思いを持っているかもわからない、赤の他人なのだ。


けっきょくわたしは怖いのだ。自分がこうだと思ったことを否定されることが。
ナンパされたらきっと迷惑だろうと思っていることを。ナンパは嫌がる人がいるものだから見かけたら止めようと思っていることを。


ただでさえ道行く人たちの“シンドい”オーラを見とがめやすくなっているのにそれこそ“どうにかしなきゃ”を抑えていかないと自分が壊れる。


他人は変えられない。自分からそう思わない限り。
自分が何でもできると思うな。自分ができることなんて限られている
できることから、やっていくしかない。


でも


でも。

 


日常の、一瞬の出来事。