生きやすさマガジン

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「助けて」を言えないのは被害者をやらせてもらえないから、という1つの例

【『助けて』を言えない気持ちを語りあう、研究する会を四月下旬に開きます。詳細は次のブログにて】

 


「事がらを聞くな、気持ちを聞け」というのは傾聴において大事だとされていますが、それがよく表れた事例があったていたのでリンクを貼っておきます。


第十二回 「人は被害に立ちたがる」 | ナポレオン


あるラジオ番組での電話相談において、離婚して引き取った思春期の娘の反抗に困りかねている父親からの相談があったそうです。
娘の心ない言葉に傷つく父。そこで回答者がこれまでの経緯や詳細を聞いていきます。

 


“しかし聞いていくうちに実は相談者本人のDVによって現在シェルターと警察に保護されてる事案と判明し、一気に被害と加害の構図が逆転、相談者はまず自分の状況認識してくださいへのご理解フェーズに。”

 


ラジオの回答者もこの記事の書き手も、事がらに焦点を当てた結果相談者を「被害者→加害者」という属性に変化を遂げさせたことで、安心して「悪いのはあんたじゃん、自業自得じゃん」という流れに持ち込んでいったようです。こうなるともう傾聴はできません。目の前の当事者をヨソにその場にいない娘さんの気持ちを周りが勝手に慮り、善悪を判断しています。相談者の気持ちはずっと無視されています。「助けて」を言ってくる人に対して、糾弾するような形にすらなっています。
相談者はつらい現状をなんとかしたくて相談したはずなんです。しかし周りは状況を聞くだけで「裁く側、真実を明らかにして悦にいる側」となって自分に酔いしれているのです。これは傾聴でもないし寄りそってもいない。


そんな相手に、世の中に、だれが「助けて」を言えるでしょうか?


被害者をやりきらないと自分の加害性には気づけないんです。
そのために周りはしっかりと話を聞いて、とことん寄りそいきることが必要なんです。つらかった気持ちやためていたものを吐き出す。そこでようやく周りの世界が見えてきます。
もちろんこの父親も己の加害性についていつかは考えなくてはいけない。でもそれは「今」ではない。自分のつらさ、絶望におおわれた世界に一人取り残された状態で、どうして他者の、周りの人たちのことまで気づかうことができるでしょう。「助けてほしい!」と強く願っている人が周りから「あなたにだって悪いことこがあるんだからね」って言われて、それですぐ「そうか、悪いのは自分なのか、気づかせてくれてありがとう、スッキリしました」ってなるわけがない。
周りの気持ちに気づく前に、まず自分の気持ちに気づくということ。そのための傾聴であり、気持ちを聞く、です。


当事者研究会で行われていくのもこういったことです。他の人から意見をもらったり解決策を言い合うのではなく、ただお互いの素直な話をあるがままに話し、聞く。そうすることで自分の中に「あれはこういうことだったんだな」という気づきが生まれます。
どうしたらいいか、は自分の中にあるんです。「自分」がわからない状態で他人からいくら正論を言われたところで安心は生まれないんですよね。

 


まあラジオの電話相談という特殊な状況ではリスナーを意識した物言いや展開になるのも織り込みずみなのかもしれません。

それを聞いて「人は被害に立ちたがる」なんて被害者とすることを諌めるような認識を自然と醸し出してしまう世の中、これじゃ言いたいことも言えないよな、と思わせられた記事でした。

 


共感とは被害者に立たざるを得ない当事者の気持ちがわかるということ。


指摘しても人は変わらない、自分で気がつかないかぎりは。


今、この場にいる、自分の気持ちを大事にする。


そういったことが浸透していくことで、はじめて素直に「助けて」と言える世の中になるのではないでしょうか。