生きづらさマガジン

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第3回寄りそい方研究会報告 「他者や自分の死にたい気持ちとの向き合い方」

第3回寄りそい方研究会の報告です。今回はわたしを含めて5名参加ということで、このぐらいの人数になるとカフェよりも会議室を借りてやっても良かったかと思いましたが、場の空気感というのもありますからね。わたしとしては思いっきり主観的になれる場と少し冷静に、客観的になれる場両方用意してやるのが良いのではないかと思います。最初は会議室、二次会でファミレス、みたいな。次回からはそういう二段階方式でやろうと考えています。

 

 


【会の印象とわたし自身の思い】

 


今回は3箇所の傾聴ボランティア団体からの参加がありました。今回も「聞き手側」「寄りそう側」ばかりでいわゆる「話し手側」「当事者側」の参加はなかったのですが、わたし自身の会の印象としては「寄りそう側の当事者研究会をやった」という気分でした。
特にテーマが『自分の葛藤とどう向き合うか〜どうして死んだらいけないの?』だったので「死にたい気持ち」について話すことが多く、身内や自分自身のそういった気持ちを述べる時間が多くありました。全員が普段は聞く側としてそういう気持ちと向き合っていますが、こうして自分たちの体験からの話となると自然とそういった空気になるのでしょう。
わたし自身今までの会では寄りそう側としての立場を意識しての話しをしてきましたが今回は真逆で、当事者側としての感覚で話をしたり聞いたりしていました。
そうなるってくるとみんなの発言を聞いてもちょいちょいイラつくことがあるんですよね(笑)。総括するときにもちゃんとこの気持ちを伝えましたけど。少しでも自分のことをわかってないな、こっちの気持ちじゃなくて自分の思い込みでしゃべってるな、という発言は一瞬でもそういう感じを受けると「あ、なんだよ」っていう怒りとか寂しさがわきます。
この寄りそい方研究会を始める前にわたし自身当事者研究会に参加したり主催したりしていたので、そこでの感覚がすごく身体に染み付いているなって気づいたんですね。あの頃参加者たちがよく言っていた「(傾聴ボランティア団体のよく言う)あなたの気持ち聞かせて、なんてどうせわかりもしないくせに」っていう感覚。電話がつながりもしない、どうせ話をしたって説得や説教をされるんだろう。そんな無理解な人たちへの怒りや悲しみ、あきらめを抱えたまま当事者は日々過ごしています。そういった人たちとの空気感を覚えていると、寄りそうなんてことが簡単に「出来る」なんて言えないんですよね…。


まるでわたしが当事者としての気持ちを完全にわかるような書き方をしていますが(笑)、じつはあの頃わたしが感じていたことは「自分は当事者ではないんだ」というちょっとした疎外感でした。寂しさ、と言っていいのかな。いろんな経験があっても当事者性を感じてないんですよね。そもそも『当事者性とは何か』も考えて行きたいところなんですがやっぱり自分は聞き手側なんだ、と思っていました。でも今回のこの会では自分は完全なる聞き手ではなく当事者側なんだ、と思っている。結局どっちでもない、グレーゾーンにいたい、そこを楽しみたい人間なんだって再認識させられたんです。
どこにも所属できない人間として、自由に、各々の立場を聞いて、その人たちをつなぎたいという気持ちがあるんです。これは「属性の代弁者になる」という危険性もはらんでいるのでここは本当に気をつけなければならないのですが、そういうグレーで自由な立場としての自分がみんなに出来ることとは、を考えながらやっていけたらいいなと思えた会でした。


というわけで、今回の会でメインで話されていた「死にたい気持ち」ですが、「他者から死にたい気持ちを打ち明けられた時」と「自分が死にたい気持ちになったとき」で参加者から感想が寄せられたのでそれと合わせてそれぞれどんな話し合いだったか書いていきたいと思います。

 

 


【他者から死にたいと言われたら】

 

 


他者、それも身内が死にたいという気持ちを打ち明けてきたらどうするか。
このことについての体験を参加者の方から聞いた時、その場での皆の思いは「打ち明けてきた、ということはそれだけでもすごいことだ」というものでした。傾聴ボランティアをやっていれば死にたいと伝えることがどれだけ勇気のいることか、それが出来るだけの信頼関係を築くことがいかに難しいかをいつも思い知らされているからです。
それでも打ち明けられた側にとってはそこからがスタートであり、それによって生じた罪悪感や今後の不安とどう向き合っていくのか考え続けねばなりません。
「具体的な解決策を見つけよう!」ではなく死にたい気持ちをユラユラ転がす感じで、死にたい気持ちを打ち明けられたことによって生じた感情に焦点をあてて聴く。それがこの場で行われたことでした。


…のはずだったんだけど、この会でのわたしは最初は話し手である参加者の気持ちに寄りそうつもりだったんだけど、何度も話すうちに最後は当事者の方の気持ちが気になっていってしまってたな、と感じてたんです。
「今目の前にいる話し手の気持ちを聴く」のが傾聴の大前提なのに、この場にいない人へ気持ちがシフトしてしまっていた。これもまた「属性の代弁者」気取りであり、わたしが以前からやってしまう「聞きたがり」「なんとかしたがり」の部分が発動してしまった結果だと思います。他の参加者の「自分の日常、やるべきことをやるのが良い(必要)」という言葉は本当にそうだなと思ったし、わたしはついついお節介やりたがり、なんとかしたがりで相手へののめり込みが多くてこれまでそれで多々失敗してきた。そういう適切な距離を置く、干渉しすぎないということも大切、そういったところも冷静にこなせればいいのですが中々難しい。
わたし自身もメンタルを弱った人と一緒に居た経験があるので、ただ見守ることの難しさもよくわかる。そうして煮詰まってくるとただただ「どうしたらいいんだろうね」っていう言葉しか出てこなくなる。


わたしがこの場で最後に感じたのは「できるだけ最後の瞬間まで一緒にいれたらいいね」という思いでした。もちろんこの「最後」の意味は自殺だけでなく「この先ずっと」の意味でもあります。
気持ちだけはそう思っているんだよということが伝わっていればそれで当事者との繋がりを生み続けることはできるんじゃないかな。
そしてこれは傾聴ボランティアだけではない、全ての人ができることだと思います。
どんなに細い糸であれ繋がっていると感じていれば、人はなかなか死ねないんだと思う。もちろんその繋がりは「人」だけじゃなく「こと」でも「もの」でもいい。
繋がりでも未練でもいい、孤立を感じさせないためのそれは時間や空間といった制限を感じさせない永遠性を含むような感じがします。


「信頼」「安心」「愛」呼び名はどうあれこういうものがあると「死にたい、でも死ねない」になって今度はそこにすら葛藤が生まれる。「死にたい」も苦しいが「死ねない」もシンドイ。


だが最後の瞬間まで決して手を離してはならない。相手の気持ち、自己決定は尊重するがそこの繋がりが消えることはない。

 

 

 

 


寄り添い方研究会、2度目の参加になります。
今回のテーマは「なぜ、死んではいけないのか」
まさにそのことで考えさせられることがありましたので、参加させていただきました。
詳細を説明するとあまりにも長くなってしまうので省きますが息子からのある言葉に私は衝撃を受け、それ以来、重たい鉛のようなものが体の中にある感覚に陥り自責の念にかられていました


「死のうと思っている」「死に方も考えている」


以前でしたら感情をあらわにしていたかもしれませんが傾聴ボランティアをはじめていたので、少しは冷静を装ったものの、実際に"死ぬこと"を淡々と話す息子を前にすると、かける言葉が見つかりませんでした。


"死んではいけない "


この言葉は息子の気持ちには寄り添っていないようで、言うことができませんでした。


皆さんに胸の内を話すなかで"ちょっと違うかもしれませんが..."と"息子側"の苦悩を経験された方が話しをして下さいました。
人は辛いことや苦しい時に死ぬことを考えるように思いますが"死"は、全ての人に平等に与えられているもの。
死ぬことを考えることは、特別なことでも変わっていることでもなくて、生きることを考えるのと同じように大切なことなのではないか。

 


自分の立場とは違う気持ちを聞けたことで、ほんの少し、体の中の鉛が軽くなったような感覚になりました。


今回のテーマの中で、息子の死にたいと思う気持ちを、解決するでもアドバイスをするでもなく、静かに真剣に聴いて下さり私は"傾聴される側"を体感させて頂きました。
"聴く"ことで感じること "話す"ことで気づくこと
先の見えないことではありますが、自分自身の小さな変化に一喜一憂しながら"聴くこと" 続けていけたらと思いました。

 


長文になり失礼いたしました。
この度はありがとうございました。

 

 

 

 

 


【自分の死にたい気持ちと、それを聞く側の態度】

 


最初は自己嫌悪だったけど、それが自分だけなんでこんな…みたいな気持ちから周りに対する憤りに発展していったけどそういった自分の気持ちを理解していくことで「みんな」と「今のわたしの立場」がわかり、そこから「一人一人違うんだ」という解放に繋がった、という話。
「死にたくなった時の一つのライフハック」としてぜひ言葉として残して伝えてほしいな、と思いました。こういうのって貴重でありがたいんですよね。
この方は他にも「自分が死にたいという気持ちを親に伝えると親が傷ついたのがわかるし、罪悪感があるから自分でそこでストップさせた」とも言っていました。やっぱり周りが「聞くよ」という空気感を出さないとなかなか話せないんですよね。そんでもって、この空気感っていうのが難しくもあり、大切なことなんだよね。先ほどの方もそういう空気感があったからこそ死にたい気持ちを打ち明けられたわけで。
もしそういった空気感を出せずに「この人今迷惑がってるな」とか「困ってるな」って一瞬でも感じたらそこでシャットダウンしちゃうんだよね。

 

 


ゆるキャラとかマイブームでおなじみのみうらじゅんさんが著書で言ってたことなんだけど、支持する側が「面白がる(好きを伝える)」ことが大事だって。全然人気がない地方のゆるキャラ担当者が申し訳なさそうに「うちのこんなキャラを紹介していいのでしょうか…」ときたら食い気味に「だからいいんですよ!」と言って肯定してあげる、自分が面白がっていることを全力で伝えることが大切だっておっしゃっていて。
そういう空気感、雰囲気を出していると相手も「あ、これでいいんだ、語ってもいいんだ」って安心するんですよね。そしてそう言ってくれる人のところに人は集まるってくる。仏像ブームがまだない当時、みうらさんが面白がって仏像を集めていた時も真面目な住職から「仏像をそんな目で見て不謹慎だ!」って怒られてたそうなんですが、誠実に自分の仏像愛を語ることで信頼を得て、そうして自分が魅力を伝えていくことでブームになったとおっしゃっていました。
だから自殺とか、死にたい気持ちも面白がって、興味を持って聞くという流れも必要だと思うんです(根掘り葉掘り聞き出すんじゃなくて関心があるということを伝えるということですね)。それこそ死にたい気持ちなんて相当強く「聞くよ」オーラを出さないと誰にも言えないまま死んじゃいますからね。


今『自殺会議』とういう自殺関連の人たちのインタビュー本を読んでて、ここに出てくる人たちは皆自殺というコンテンツを面白がっています。皆が情熱と勇気、それに後悔や自責の念、様々思いを抱えたまま自殺に向き合っています。それはもう、めちゃくちゃすぎてて逆に笑えるところもあったり…


そこまで強い関心や情熱があるんだよ、とういことを届けるためにどうやっていくのか。これは傾聴ボランティア団体における「宣伝」の話にもなってくるかと思います。ツイッターやインスタで自殺関連の言葉を打てば問答無用で出てくるあの広告のようになると「そこまでして伝えたい」と「そんなことまでするのか」というのは「自殺は何としても止めたい」と「自殺はいけないことだから隠したい」という世間の思いとも繋がると思います。この辺の『自殺の扱い方』もテーマとして話し合ってみたいことですね。


「当事者」という言葉の定義に「本当の自分を知りたい人」があるのなら、好奇心があって知的欲求がある、そしてなにより誠実さのある面白がり方は当事者にとっても寄りそう側にとっても1つの「死にたい気持ちとの向き合い方」としてとどめておいてもいいんじゃないかな。

 

 

 


こんにちは、先日の寄り添い方研究会に参加させていただいた者です。


感想も兼ねてまずは今回のテーマの発案者として、自分事で恐縮ですがメンタルが落ちてから回復するまでの経緯を書こうと思います。


私の場合、ことの発端は自己嫌悪でした。
特に見た目に関しての自己嫌悪がひどく 何につけても「私はダメだ。こんな私じゃ何をやっても意味がない」と常に何かに怯えていました。


いつもはそうやって全てを自分のせいにしてすませていたのですが、なんなら今回は一度それを煮詰めていこうと思ったのです。
「本当に自分はそう思っているの?」「本当にそれが私の言いたいことなの?」と。


具体的に言うとノートに書き出していく作戦ですね!


そしてそうやっていくうちに気がついてしまいました


その時の私の本当の気持ちは「"みんな"は楽しそうに充実して生きているのに、どうして"私だけが"こんなに生きづらさを抱えながらそれでも生きないといけないのか」だったということに。
いつも自分を責めていたからわからなかったけど、本当は自分の頭の中で作り出した「みんな」に怒りやいきどおりをもっていたのです。


この時、自分の気持ちを正しく描写するってすごく大切だなと痛感しました。
「大切」ていうのは私の場合【落ち着く・安心する・受けとめられる・しっくりくる・気持ちいい】を指します。


そしてその段階(自分の気持ちを認めたこと)があって次に、さらに気持ちが落ち着いてきたり視野が少し広くなってきたのは 他の人達の言葉や経験を"自分から"聞いたこと(読んだこと)がきっかけだったと思います。


そう、私が思う「みんな」を分解していく作戦です!


たぶんこれが誰かから言われた「みんな辛いんだよ」だったら余計苦しかっただろうし、「みんなも辛いから私だけじゃないのか~ならいいや~」ていう感覚ともまた違くて。。。
うーん、なんて言ったらいいんだろうこの感覚は。


結論から言ってしまうと、「どうして生きないといけないの?」のこたえがほしかったんじゃなくて、そのことについて熱心に一緒に考えてくれる"過程"がほしかったんだと思います。


私の場合は、親は子どものそれ(死ぬこと生きること)に向き合うのにはキャパが足りなかったし 友達にも話せなかったので、ノートを使って【自分と一緒に】考えた…て感じですかね。

 


以上!ここまでが当事者(生きていきたくないと思ったことがある側)としての私の気持ちとプロセスでした。

 

 


 そしてここからは寄り添い方研究会に参加した感想を交えつつ、上記を踏まえた上での聞く側(寄り添う側)の立場として 視点を少しだけ変えてお話しします。


話を聞く側として、相手に「どうして死んだらいけないの?」「死にたい」と投げかけられたとき…
上に書いたように「私はこうやって立ち直ったよ!だからあなたもこうすればいいんじゃないかな?」なんてこと、私は口がさけても言えません。


なぜなら私の場合"今回はたまたま"こうやってなんとかやり過ごすことができただけで、またくるであろうメンタルの落ち込みに何度も同じ手が通用するとは思わないし
当たり前ですが、なによりも私とあなた(相手)は違うからです。
感じ方も環境も過去も好きなものも嫌いなものも、なに一つとって同じものはないからです。
だからこそ、違うからこそ、まずは相手の話をきかないことには何もはじまらないよなぁと。


寄り添い方研究会だってこたえを擦り合わせるのではなくて、みんなそれぞれに自分なりの考えやこたえを持っていて それを聞きあう場だと思っています。


今回のテーマについても、参加者さんのそれぞれの現状や過去・そして今の想いをきかせていただいた とても貴重な時間でした。
(ただ、私は"聞きたがり"なので話を"させてしまった"のではないかなという反省と葛藤も含みつつですが。。)

 


あ!それから1つ新しい発見があったのですが、私は虐待とかいじめとか相手によって"されること"相手に"殺される"かもにしれないことにたいして、どうにかしなきゃという思いが強くでるクセがあるみたいです。


それに対して「死にたい」はある意味自発的なものだから(それももとをたどれば人からの攻撃で精神や命の危機にさらされたりしてその想いにいきつくことが多いのだけれど;)どうにかしなくちゃ!という思いに直結するよりもまずは話を聞こう、という心持ちができているんじゃ?と会に参加している方に言われてすごくしっくりきました。

 


 さて「どうして死んだらいけないの?」にどう向き合うかに話をもどしますが、忘れてはいけないのは 私が感じた悲しみ・怒り・楽しさという気持ちは私のもの。
そして相手が感じた悲しみ・怒り・楽しさもそれは相手のものだということ。


たとえそれが親子関係であったとしても、相手の傷つきや感情を投げかけられた時にそれを自分が責められているというふうに自分のものに変換しなくていいということ。
(そうは言ってもこればかりは正直難しいことだとは思います…愛情というのは理屈ではないので)


そしてその感じ方の違いこそが難しくもおもしろいところなので、私はそれを尊重していける人になりたいのです。
そのためにはまずは何をおいても…たとえそれが死にたいという内容であったとしても、話を聴くことができる人になりたいなと再確認できた集まりでした。

 


長文になってしまいましたが、これを今回の感想とさせていただきます。ありがとうございました。

 

 

 

 


【葛藤と正解の話】

 


いちおう「葛藤」も今回のテーマだったのですが、わたしが思ったのは「立場(立場性)」によって自分が分断されていると感じると葛藤が生まれるのかな、ということです。
話し手と向き合っている自分と組織として、第三者といる状態での話し手との向き合い方に齟齬が出ると葛藤が生まれたり。この話をされた参加者の方は自分なりの折り合いをつけて最後自己を一個に統合させてたように感じたのですが、いろんな立場を同時に併せ持つとけっこう矛盾や反抗心を感じてしまうことがあるんですよね。


あと話し合いでも出た「当事者になっちゃいけない」という言葉も面白いな、と思いました。なぜいけないのか、そもそも当事者とはなんなのか、いけないと考えているのは誰なのか。わたしは傷ついた話し手の話を聞いて自分の傷つきの感覚をよく思い出すのですが、それは「当事者になっている」と同義なのか。


あとわたし個人の葛藤としては、話し手をあるがままの場所に居させるってことが本当にできないんですよね。こっちに出て来させようとか、原因を探ろうとか、正解を当てたいとかの意識じゃなくてただたんに「知りたいだけ」なんですけど、そういったスケベ心ももちろんないわけじゃないし相手がそう感じたら不快になるだろうし。聞きたいんだけど、そこを侵害するような踏み込み方は、しちゃいけない、わかってるんですけどね。そこには誠実さとか、信頼とか、そのへんの有り無しでまた変わってくると思うんですが。たぶん今ここでなんとかしなきゃいけない、次はない、っていう焦りもあるんだろうけど。今回はこのくらいで、っていう余裕の気持ち(話し手の強さを信じるということ)もあると違うんだろうな

 


あと「正解の言葉を探している」っていう言葉も面白かった。マニュアル的にこういう場合はこう言うというのが経験として積まれてくると出来上がってくるんですよね。それに「あの時はこう言えばよかったのでは」「次にこうすればもっといいのでは」という積み重ねがまるで正解を探求しているかのような気分になれる。
もちろん当事者がピンとくる言葉、求めていた言葉ってのもちろんあると思います。それをピタッと言い当てられた時、お互いが気持ちいいかも知れません。これは会話が終わる時の、終わり方の作法にも繋がる話なのですが、最後はどうやって終わるのが正解なのか。「死にたい気持ちがなくなりました。明日から普通に生きていけます。ありがとう」が正解なのか。じゃあAIに「こういう場合はこういう言葉を返す」ってやっていけば完全無欠の返答マシーンができるのか。
死にたいと言われたら死んではいけない、頭ごなしに否定してはいけない、みたいな捉え方があるけどではこれは正解といえるものなのか。
『コミュニケーションにおける「正解」』っていうテーマも面白そう。これはコミュニケーション(電話対応/メール対応)における終わり方の話でもあるかと。


創作における正解探し的な感覚はもちろんある。
絵でも、文章でも、「これだ!」と思えるものを探してるわけだし見つけることができると「俺って実は天才では⁉︎」ってなる。それは自己満足でもあり権威に選ばれることでもあり、他者の心を奪うことでもあり。
もし正解がジャッジする者の存在を作り出すとしたらそれが話し手聞き手の二者間だけじゃなく見えざる存在に委ねられる可能性があるということ、それは「死にたい気持ちの判断を誰かに委ねる」ということであり「当事者性を手放す」ことにつながる。けっきょくは「個人の尊厳を失う」ことにつながっていきはしないかと危惧する気持ちもある。
まあでも正解があるって信じられると道中は苦しくても楽なんだよね。それに頼ってしまう、しまいそうになるのはわかる。だったら苦しくならないような向き合い方、聞き方を探すべきなんじゃないかな。
もちろんそうじゃない意味合いでの正解探しもあるんだけどさ。

 

 

 


【まとめと会の今後】

 

 


というわけでここまで書いてきましたが、もうすでにかなり長いよね(笑)
この他にもまだまだ考えたことがあるのですがだいたい聞くためのテクニックとかの話なのでそれらは今後のブログに書いていこうかと思います。
だいたいこんな感じですね。



●「そうなんですね」はもったいない。相づちの話


●「これを言ったら相手を怒らすかもしれない」はチャンス


●「話したくない」をわかる


●「沈黙」と「促し」
↑わたし、促すってことが本当に下手なのでこの辺の話は改めてよく知りたい


●緊急事態と組織への不安


●(傾聴)ボランティアにおける「リターン」とは


●自分を出す/出さない問題。寄りそう側は当事者になってはいけないのか

 

 

 


なんか今回こうしてまとめてもまとめ終わらないのも話すことが多くて話したくても話し足りないなぁって感じたままで終わったから。


そして何よりこうして会を主催している立場の自分と、生身な自分が乖離していることに最後の最後で気づいてしまったから。


うーん困った。


だってどっちも好きなんだもん(笑)!