生きづらさマガジン

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寄りそい方研究会に向けて〜メンヘラ.jpに載った首吊り自殺を遂行するに至った話を元に

3月3日、池袋にて第3回寄りそい方研究会をやります(詳細は前回のブログで)。
今回はテーマとして『自分の葛藤とどう向き合うか〜どうして死んだらいけないの?』を掲げています。
誰かを支える、寄りそうにあたって「自分の中にも葛藤がある」「自分だって死にたい気持ちがあるのに」「どうして死んだらいけないのか、わからない」という思いを抱えながらどう寄りそい、支え合っていくかを話し合います。 
死にたい気持ちだけでなく、人と向き合うにあたって出てくる様々な葛藤や自分自身との向き合い方についてなどにも触れたいと思います。


そんな中最近「メンヘラ.jp」においてある体験談が載ったので、これを元にわたしの思う寄りそい方について話したいと思います。

 


首吊り自殺でICUに入ってから、なんとか落ち着いた生活を取り戻すまで - メンヘラ.jp

 


実際に首吊りをしてその後の回復までのお話です。現状も色々な気持ちを抱えながら、それでも投稿者さんは生きています。色々と考えさせられることが多いお話でした。

そして「寄りそい方」として見た場合、投稿者さんが実際に自殺を決行するに至るまでに起きた2つのやり取りがカギになるような書き方をされてました。家族とのやり取りと、頼りにしていた友達とのやり取りにおいてです。

 


“そして話を戻すがなぜ首を吊ったのかというと、今にして思うと私の被害妄想と家族の疲弊が折り重なった結果だったのだと思う。上記の様にやらかしたい放題の私に疲弊した母がある日ポロリとこう言った「みんな迷惑してるのよ」と。”

 


この母が言った「みんな迷惑している」の言葉も、もちろん本音だと思います。支える側にとっての様々な負担は善意や愛情などですべてが簡単にそそがれるものではありません。
責めるべきではない/どうしようもないことだとわかっていながらも心に溜まっていった澱は、何かしらの方法で吐き出されない限り支える側自身をも押しつぶしてしまいます。


そして同様に尋ねた友達からの言葉。

 


“「私って迷惑?」

 

友達はこう言った、勿論こう言った。

 

「迷惑なんかじゃないよ」と。”

 

 

 

その後の“やっぱりそうだったんだ”という言葉は自分が人知れず期待していた言葉をもらえた安堵の気持ちが込められていたのでしょう。

投稿者さんはこれによって自殺を決行します。


「みんな迷惑している」「迷惑なんかじゃないよ」という違った言葉をもらいながらも、当人にとっては全く同じ意味だったんじゃないかと思います。


自殺という一本道に導く言葉として。

 

 

 


【地球は宇宙の精神病院】

 

 


傾聴ボランティアをしていて色々な人の話を聞いていると、わからなくなってくるんですよね。


一体誰の言っていることが正しくて、なにをすることが正解なのか。普通だと思って生活していることの多くは全然普通でなんでもなくて異常とかおかしいと言われている物事が本当は正しいこと、自然なことなんじゃないかって。


太くて安全だと思っていた道が実は細くて揺れるロープであり少しでも油断するとそこから落ちてしまうということに、ある日気がついてしまう。
そんな危険な綱渡りをしながら私たちは日常を過ごしている。
だから少しでも油断すると日常を壊す言動をしてしまう、他人に投げつけてしまう。
元気な時はなんとも思わなかったそれらも、弱ってきて「正しい視覚」をとりもどすと裏に潜んでいた真実に気づいてしまう。


「本当はこう思っていたんじゃないか?」


「なんだ、いつもこういうつもりで言っていたんだ」


そんな真実に気づかないよう、わたしたちは鈍化して見て見ぬ振りをして、それでようやく普通として生きている。そんなギリギリのやり取りが当たり前のマナーとしてはびこっている。
どれだけ慎重になっても、しすぎるということはない。

 


投稿者さんにとって家族は、友達はどう答えれば自殺を食い止めることができたのか。
どちらの答えも本音だったと思うんです。もちろん家族が「迷惑だ」と答えた中には愛情なり寄りそう気持ちはあったはずだし、友達の「迷惑じゃない」の言葉にもそう答えなきゃヤバイと思っていたりの不安や疑念、保身や自嘲など、綺麗事だけじゃない様々な感情があったはずなんです。


寄りそう側が複雑な感情に囚われている。

それだけで当事者はその責任を感じて自分を消そうと考えます。


そこにはお互いを思いやる気持ちがあるのに。


だったらそれを伝えるしかないんです。

 


「なんで“自分って迷惑”なんて思ってるの?」

 

 

寄りそうには、一旦同じ土壌に立つしかない。
私たちだって、危険な綱は見えている。
普通でいられるのは、なにも感じていないかそのフリをしているだけ。
怖いのはあなただけじゃない。


そう伝えることが、寄りそうことなのではないでしょうか。
家族として友達としてどう寄りそうかは、そこを超えた後に課せられるものなんです。