第2回寄りそい方研究会 〜傾聴ボランティアをやっているのも人間です。
昨日は池袋のカフェにて2回目の「寄りそい方研究会」でした。
今回の参加者は他の傾聴ボランティア団体に所属している女性3名とわたしの計4人で行われました。
とにかく皆さんが現在抱えているモヤモヤや疑問を提供し、それについて時間の許す限り話し合いました。
今回特にテーマを決めていたわけではなかったので、全員傾聴ボランティアをやっているというところから「聞くため」の問い立てをし続けた回だったなと感じました。
外部から見たら
「傾聴ボランティアってどんなことやってるの?」
「どうやって相手の話を聞いているの?」
と不思議に思っている方も多いと思います。あまりにそういった情報がないせいもありこの業界は慢性的な人手不足で、十分な対応もできず結局は「どうせつながらない」「たいして話を聞いてもらえない」という信頼を築けない状況になっているなと感じます。
その問題を解決していくことも今後のこちらの課題であると皆思っています。
この会の存在が「支える側の意識を共有する、学びの場となる」と同時に「当事者との橋渡し」ともなればうれしいです。
ということで、以下出てきた問いを列挙していきます。
あまりに多いので詳しいわたしの意見や感想は書きません。短い時間ではとても話しきれなかったし、一つ一つが簡単に答えが出るものでもないですしね。
参加した方各々がどう感じ、どう考えたかが大切ですのでね。
後日参加者の方達にも感想を書いていただくつもりなので、それらも参考にしてみてくださいね。
【「組織(システム)」として聞くのか、「個」として聞くのか】
「1人で、自分のやり方で聞きたいという想いがある」とおっしゃっている方もいました。
複数での応対であれ精神科医のように1人で聞いているパターンであれ、そこには組織や流儀といったバックボーン、背景があってそれが聞き手の守り方であると同時に当事者への攻め方でもあります。
それが当事者のためのものならばいいのですが「組織のため」に感じるととなるとちょっと違うような気もします。
「うちのやり方としてこうやりなさい」という方針に疑念を抱いたままやるというのは何にせよ自分を苦しめることになりますので、そこは風通しの良いものであってほしいと思います。
「誰のために、何のために」を意識しておくのが大事だ、という話がありました。そこが見えなくなってしまったら聞くこと、寄りそうことなんてできないんですよね。
【「疑う」と「冷たい」】
「聞き手が話し手のことを疑っているように感じる」というのがありました。
「冷たい」と感じることも。
もちろん「疑う」にもたくさんの種類があって、「冷たい」も様々な意味があります。わたしがよく感じるのは「やさしさとは冷たさではないか」ということです。
傾聴にとってマイナスに思われる要素、疑いとか冷たさとか同情とかそれらも改めて考えてみると、単純に「良い/悪い」だけで判断できない部分が見えてくると思います。どう使うか、どういう意味合いで自分が、相手が使っているのか。そういった準備(認識)と現場の生のやりとりが合わさっての「心のやりとり」なんじゃないかと思います。
【一期一会の信頼関係と親密な信頼関係】
ボランティアとしてのその場だけの関係と、担当医のような長い付き合いの関係。
長ければ信頼が深い、ということでしょうか。
なぜ一回限り、一期一会のボランティア員に聞いてもらいたいのでしょうか。
【イタズラと「なんでも聞く」のギャップ】
「イタズラがしんどい」という言葉が多く聞かれました。わたし自身が男性なのでそこまでヒドイと感じることはないのですが。
聞き手はそこに至る思いがあるはずだと思って一生懸命聞こうとします。訓練されているとはいえ、生身の人間です。傷つく人間です。
そしてこれは他者との接し方の問題でもあると思います。社会全体が考えていかねばならない問題だと思います。
「個人的な性の悩み」って、相手を「対象」と勘違いしちゃうとやっぱりイタズラとかセクハラにとられちゃうのも致し方ないと思うんだよね。「どうしたらこの孤立を防げるか?」という部分での、自分を対象としたやり取りなんじゃないかと。
【疑問の感度。受け入れると興味を示すこと】
以前にもこのブログで書いたのですが「相手の話に関心を示すフック」をうまく引っ掛けられる人とそうでない人がいるんですよね。なんでも受け入れちゃって「へー、そうなんだー」で会話が終わってしまうってやつ。案外この悩みを持っている人は多い気がする。今回も前回も取り上げたんだけどしっかりテーマとして研究してみたいです。
【聞くことにおける「満足」の意義】
ズバリ、傾聴やカウンセリングにおける「満足」の意義ですよね。
単純に考えたら目的が達成されれば満足は得られると思うんです。
では「毎日死にたいと思っている」と言ってくる人の目的って死ぬことでしょうか?
そもそも満足とは何か。満足が目的なのか? うーん、これも考えがいのあるテーマだ。
【「傷つかない自分」と「傷つかないようにする自分」】
「傾聴ボランティアをやる側として、鈍感な人は残って感じやすい人は去る」という話がありました。
先ほども書きましたが、聞き手側、支えて側も傷つくんですよね。
「プロテクターをまとう」
「自分を守るために、学ぶ」
「傷つかない、自分」
これはもう、一人一人が「傷つき」にたいしてどう対処しているか、という部分とつながっている気がします。
わたし自身、傾聴ボランティアをやって学びを増やすことでプロテクトする術は学びました。それでも、その中身は傷つきやすい自分のままだ、というのを最近の出来事ではっきりと感じました。その部分は変えたいとは思わないし、そもそも変わらないんだろうなぁ、っていう感じです。
【聞くことの終わり方】
たぶんこれが一番難しい。
【ボランティアにおける責任の限界とそれ故に見えるもの】
これも前にブログで書いたんですけどボランティアに出来ることの限界があって、だからこそやれこともあるんですよね。
こうなってくるともう「ボランティア論」だと思うんですけど。
あとはもう、立場性の話かと。
そもそも無償のボランティアにおいて責任とは?
【実践と学びのギャップ】
「現場での実践」と「貪欲に知りたい」とのギャップ。
【共感と同情。自己を重ねる“按配”】
昨日の会で特に感じたことなんですが、「言葉の定義を限定するとしんどいな」っていうこと。
「自分と相手を切り離す」ってけっこう大事って言われます。その通りだと思います。だからといって相手と自己を重ねることは悪いことだとは思わないんですよね。むしろ素晴らしいというか。
これ一見矛盾するようですけどそんなことなくて。ようは解釈というか受け止め方だと思うんです。
【傾聴における「自分」とは】
まあコレですよね、コレ。
他者と対話している時、接している時の「自分のあり様」
他者と真剣に向き合っているほどに「自分」に向き合わされる。
かと思えば自分が無くなる感覚もあり。
もう1人の自分がいたり。
面白いよね。
てな感じで、ざっくり書いたけどうーん、これらについて考え出したらキリがないのは当たり前。ていうかでも間違いなく言えるのは、「みんなで考えるのは楽しい!」ってこと。
今回は特に「聞く」に関してとりとめもなく話してたって感じだからもう終わらないのよね、話が。
次回以降は、もしこれ以上人数が増えたらレンタル会議室でやろうかな、と。ちょっとカフェだと人数的に入らないのと、大勢だと「テーマ」を決めておかないと話がとっちらかって終わっちゃうので。
最初はテーマを決めて話し合って、そのあとファミレスとかで二次会、かな。そこでは各自たまった鬱憤を自由に吐き出してもらう、と(笑)。
ちょいと方向性で迷っていて、「支援者として、ボランティアとしての寄りそい方」の会ですけど「聞くこと」についての会としても面白いので…まあテーマで振り分けてどっちもやったらええやん、って考えてます。
というわけで、参加者&テーマを随時募集しております!