生きやすさマガジン

自分が生きやすく、みんなも生きやすく

被害者をやりきること・限界を知ること

あなたが誰かや何かに対して「キレる」とき、それは自分が「被害者であるがゆえ」のことかもしれません。

 


自分の中に納得できない出来事(毒親とかいじめられた仲間との関係性など)を未解決のまま押し込んで聞こえているのに聞こえていないふりをしたり、無視したりし続けると、限界になった心が外に向かって吐き出されていきます。


直接人にぶつけることもあればお酒やギャンブルに依存したり。そばにいて自分を支えてくれる人に対して吐き出されたりもするでしょう。
嫌なことをしてくる相手に対して「向こうにも事情があるから…わたしのためを思ってしてくれてることだし…」なんてしちゃうとどんどんキレる自分に自己嫌悪や罪悪感が積もっていきます。そうなるとまた自分もシンドくなっていきます。


こういう場合にまずは「被害者である自分をやりきる、徹底的に自分の味方になる」ということが必要になってきます。


相手のためを思うのはまず自分がされた嫌なことの整理ができてから。そうじゃないと「わたしはこんなにあなたのことを思っているのに、あなたも周りもなんでそれができないの、そうすることが当たり前でしょ」という加害性も正当化されてしまいます。


まずはあなたが被害者をやりきること。
自分のしんどさ、傷つきを知り、語り、わかってもらうことでようやく自分の加害行為に向き合っていけるのです。

 

 


【とはいうものの。そしてボランティアの限界】

 

 


傾聴ボランティアをやっていて難しいと感じるのは、この「加害性をなんとかしたい、なんとかしてほしい」というのと「被害者をやりきるのがしんどくてムリ」というものです。


なんとかする前にそもそも被害性に向き合うこと自体がつらいことですし、向き合おうとすらしない(自分のことは後でいい、そんな資格なんてない)という場合も多いです。自分という存在が長い傷つきで薄すぎてしまっているんです。やりきるための自分が無い。そこにいるはずの自分が痛みを感じない、どうでもいいまでの状態になっている。


「そこまでの状態なんだ」ということを、気づくことが必要なんです。ですがこれはやはり簡単なことじゃないです。たかだか数十分の話し合いでその気づきまでいけるでしょうか?
さらにはそうすることが良いとこちらが思っていたら、それは誘導にならないでしょうか。きっと医療従事者だったら自らの方針、エビデンスや信念があってそうした方がいいという道筋が見えているのでしょう。


そこにわたしは、専門家以外の者たちの、限界と役割をみたんです。そこまで個人のつらさをなんとかしたいんだったら医者になれよ、って話ですが。


わたしがやりたいのは、やっているのは「道筋に出会っている、もしくは出会ってなくてどうしようもなくもがいている人たちに何ができるか」なんですよね。
わたしたちみんなが出来ることがあって、それが「聞く」から始まる寄りそいなんです。
つらさを抱えた人のそばにいれば「なんとかしよう」と思い、それが出たら最後「なんとかできなかった」自分に向き合わされます。そこに固執してしまうとその都度自分が冷たい骸になった気分を味わうんです。そんなの相手にとっては関係ないことなんですよ。心配事を増やすのは本意じゃないしね。そうなってしまうのもわかるけど、限界を知ってて向き合うことが必要なんです。
「なんとかしよう」から「簡単にはなんとかならないけど、なにか変わるかもしれないし、気づくかもしれない。そうでないかもしれない」、そういった揺らぎに寄り添うこと自体が必要なんだという気持ちでいること。

 

自分の被害性に向き合うなんて大仰なことじゃなくて、誰にも言えないつらい気持ちがちょっと言えた、というだけでも違うものです。それが呼び水となってなにか新しい道が見えてくるかもしれません。


わずかな時間、ちいさな一歩かもしれませんが、それを支えるのが周りにいる人たちの出来ることなのかもしれません。限界がわかるからこそ、そのなかで出来ることがハッキリと見えてくるし信じることもできるしムリをしないで済む。

 


傷ついていた自分を知り、支えてもらえる自分を認める。
まずは自分を取り戻すことから、です。