生きづらさマガジン

みんなの生きづらさが集まる場。まずは、自分のために。

傷ついた癒し手 〜 1/27第2回寄りそい方研究会参加者募集中です。

【1月27日に第2回「寄りそい方研究会」行います。場所は池袋のカフェで、時間は14時〜17時です。前回の詳細は以前の記事をお読みください。

・わたしの感想→http://aroman.hatenadiary.jp/entry/2018/12/05/000544

・参加者からいただいた感想→http://aroman.hatenadiary.jp/entry/2018/12/07/122517

 

 

 

臨床心理学 第19巻第1号―生きづらさ・傷つき―変容・回復・成長

臨床心理学 第19巻第1号―生きづらさ・傷つき―変容・回復・成長

 

 


『臨床心理学』最新号の特集が「生きづらさ・傷つき」でして、個人的な体験の話も多くとても面白かったです。その中でも岩壁茂氏の書いたもののなかにある「傷ついた癒し手」について今日は書きたいと思います。

 


“「傷ついた癒し手」という言葉がつかわれるとき、心理の専門家は自分自身が傷を抱えており、その傷を直接治すことができず、他者の傷に触れることによって間接的に自分の傷を癒そうとしている、というように否定的側面が強調されることが多い”

 


確かに、今までわたしも支援者や専門家が自らの傷つきを話す場面を数多く見てきました。
けっこう引きずっていて大丈夫かと不安になるほどの危うさを感じさせる人もいれば、あまりに自分の中で強固に押さえつけたり客観視されててそれが逆に危うさを感じさせる人もいたりして。どのような形にせよ自らの傷つきを語るときというのは、他者に危うさを感じさせてしまうことが多いです(どれだけ語ってもそうならない人もいます。たぶん受け止め方と、聞き手のいる自分語りの方法を確立してるからだと思う)。


そういう傷つきが見え隠れすると、当事者を利用して己の利にしようとしてるんじゃないかって勘ぐってしまうんですよね。こっちと比べることで楽になろうとしてるんじゃないかとか、支える側の立場として承認欲求や自己満足を得ようとしてるじゃないかとか。
そういう気持ちがわくともう信頼するのも難しくなってきます。
さらには自身の傷つきや葛藤を否定するセラピストはクライエントに対して「わたしは癒された者だから」と依存を助長する可能性もあります。傷つきに限らず、自らを「克服した者、成功した者」としている人は他者に対して「あなたもわたしのようにしたらうまくいく」と誘ってしまう危険もあります。

 

 


“しかし、自分の傷を認めること、人間が傷つく存在であり、傷つくことは人間らしさの表れであり、そこには成長と変化が生まれると認識することは、傷に感するスティグマ(偏見、先入観)を打破する糸口となる”


“時に、クライエントは、セラピストに対する共感、思いやり、セラピストを治してあげたいという自らの癒し手としての内なる力に接触できるかもしれない。このとき、傷は、怪我による傷(scar)ではなく、人間の根源的な傷つきやすさ(vulnerability)であり、そこに触れることによって、真に触れ合い、つながりを共有することができることを実体験することができる”


“セラピストは、このような感情の傷つきを直接扱うよりも、その結果として起こった症状としてのうつや不安、恐怖などの心理障害に介入の焦点を合わせることが多い”

 

 


じっさいわたしも傾聴ボランティアをやっていて、相談者との距離を一気に縮められるやりとりというのがあって、それが「自分のことを話したとき」であり、それがひどい傷つきであるほど強い共感を呼ぶんです。これは傷つきへの同情ではなく、同じ人間としての一体感みたいなものです。今までひどい傷つきで孤立していた相談者も、自分だけじゃない、自分は独りじゃない、そして「誰かのためになにかをしたい」という心まで取り戻させてくれるのです。


しかしこのやり方も傷の深さというよりはタイミングが重要であって、そうではない場面で一人よがりに発すると逆効果になりますので、自然な流れて、しっかりと安全と寄り添えるタイミングを見計らって言うことが大事なんだと思います。


そして、自分はメンタルが弱いから支える側なんてとても無理だ、と思っている方もいらやっしゃると思いますがそういう方こそ案外他者が困っているときに率先してなんとかしてあげたいっと思うんですよね。それは自分がそのつらさを知っているからこそ、なんですよね。

 

 


もし自分もそういったつながりを感じてみたい、何かきっかけをつかみたいと感じた方は、ぜひ今度の「寄りそい方研究会」にも参加してみてくださいね。
現状の参加者は女性2名とわたしとなっております。