「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

生きづらさコレクターぎりさんのブログです。生きづらさ研究会のテーマ&参加者募集中!

改めて「聞く」ということに関して向き合い続ける一年にしたいと思う。

新年明けましおめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。


傾聴ボランティアをやっているぎりさんと申します。
今まで『生きづらさ研究会』や新しく立ち上げた『寄りそい方研究会』を行い、そして未だ形が見えない『マイノリティとしての婚活・恋活応援』企画などをやっております。最近は「男性性」という言葉にも興味があります。


年頭に改めてわたしにとってのやりたいことを述べておこうと思います。
「誰のために何をする自分であるのか」ということを考え、それを「聞くこと」を通して実践していくことだと考えています。コミュニケーションや人とのつながりにおいて重要な要素の一つである「聞くこと」を極めていくことが大切であると感じたからです。


それでは最近のあるやりとりを通して聞くことの難しさ、奥深さを語っていきたいと思います。

 


自己肯定感がとても低く、常に自分の存在を否定し、いらない存在だと責め続けてしまう。そんな人とのやりとりです。
そんな人に対してあなたらなどう声をかけますか。強い自己嫌悪や自己否定をしている人にアドバイスや説得をするのは良くない、というのはわりと周知されてきたんじゃないかと思います。
その人の話を聞いていると、自分をこんな目に合わせた周囲への不満や憎しみが感じられました。それをきっかけにわたしは「自分を責める、否定することを辞めさせることができるのではないか」と考えました。
傾聴のテクニックというかやり方で「感情を出せなくなってしまった相手の代わりに言ってあげる」というのがあります。「そんなひどいこと言われたら、わたしなら頭にくるな」といった具合に。そうすると本人からも「殺してやりたいくらいに思っている」なんて言葉が返ってきて周囲への気持ちが思いのほか強く「だったらそれを伝えていこうよ、自分だけで抱えるのはしんどいよ」となる。
会話の終わりの言葉は「そうですね、もっと周りに話してみようと思います。ありがとうございます」


ハイ、とても心の離れたやり取りの完成です。


最後の結果を導き出したのは一体誰か。


聞き手であるわたし側ですよね。つらさをもった本人じゃない。


絶望から引きずり出し「こうした方がいい」と結論ありきで誘ったのは聞き手の方なんです。
自分を否定しているより周りに対して怒ってもらったほうが絶望から救ったと言えますもんね。そうさせている時点でアドバイスや説得と同じなんです。それらが良くないと言われているのはなぜか。本人の気持ちじゃないからです。主体が話し手側ではなく聞き手側になっていることでこれは「聞いている」「傾聴」とは言えないのです。
「その絶望の中にいるとき、あなたはどう思っていたか」と聞くことが必要なのです。聞き手は勝手に「そんな絶望の中にいるのはつらいに違いない、なんとかしてあげなければならない」と思い、その思い込みが常に戻る居場所から出してあげようとした。本人の意思に関係のない奪う行為です。まずその居場所の存在を認め、そこでの自分というもを聞かせてもらう。「ここにていもいいんだ」という安心感、そこにいる自分を否定しないとうい認め合いからくる信頼。そういうものが生まれて初めて「わかっもらえた」という気持ちになるんです。そこからようやく「じゃあ、どうしようか」と上を向くことができるんです。
「あなたのいる所は自分を蝕む悪い所だからこうしたほうがいいよ、こっちに来なよ」はこれまでの自分を否定しなと言っているようなもので、今まで周りにいた「自分を認めてくれない人たち」と同じことをやっているだけです。


圧倒的な絶望にいる人に対して「助けてあげたい」「救ってあげたい」という気持ちがわくのは自然なことだし決して悪いことではありません。しかしそう思っているのは自分なんだという自覚を持つこと、誰の気持ちで聞いているのかを常に気をつけていることが傾聴にとって必要になってきます。


わたし自身そういった「なんとかしてあげたい」という気持ちが強くてついつい「こういう風に考えられたらいいと思うんだけど」というスケベ心が働いてしまいます。そういった気持ちで行われたやり取りは例え相手の良好な言葉で終わったとしてもどこか「心が遠いな」っていう感覚が残ります。そういう場合は大抵相手の気持ちになって聞けてなかったな、と振り返ることがほとんどです。もちろん相手がどう思っているのか、それは本人にしかわかりません。「感謝の言葉で終わったのだからこれで良かったのだろう」と思うことも可能ではあります。他人の心なんてどうやったって完全に知ることはできませんから。
これはもう自分の肌感覚みたいなもので理屈でどうこうではないのですが、そういった「心を研ぎ澄ます、敏感になる」ということをやり続けていくことが必要になります。これは声のやり取りだけでなくメールなどの文字のやり取りや、実際に対面しての身体も伴ったやり取りだとしても当然必要になってくるものです。


どれだけ相手の心が聞けるか、相手の気持ちを感じるか、そしてそれを受け止めて誠実に応えるか。
聞くということはある種「試されている」ということでもあるんですよね。自分の発した言葉やシグナルにこの人はどう反応してくるのか?自分の思いにこの人はどこまで、どのように返してこれるのか。「この人は話を聞くふりをして自分のことがしゃべりたいだけなんだな」というのはすぐ相手に伝わります。そうなったらもう決して本心で話そうとはしません。
心の扉は一瞬で閉じてしまうものなんです。
心の扉を一時でも開け続けてもらえるよう信頼を築ける人間であること、そのために「聞くこと」を理解し全力で行うことができるようになること。
それが相手を尊重するということなのです。
絶望にいる人に「ただ聞くだけ」という行為が意義があるのもその尊重が伝わる行為だからです。


尊厳を奪われ、完全に孤立したとき人は死にたいと思います。


「ただ聞く」という行為がその人とあなたをつなぎとめる役目になります。


そして聞くということはほとんどの人ができる、持ち合わせた能力なのです。そのすごさをみんなに知ってもらいたいと思いますね。