「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

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寄りそい方研究会 第一回目

先日ブログでお知らせした、支援者のための寄りそい方研究会をやってまいりました。
といっても私ともうお一方、同じように傾聴ボランティアをやられている方とお茶しながら話をしただけなんですが、なかなかに濃い時間を過ごすことができました。傾聴とは、支えるとは、ボランティア(精神)などについて語ってきましたので今日のこのブログを読んで興味のわいた方はぜひ次回以降参加していただければなと思います。

 

 


【そもそも“支援者”はどこにいるのか】

 


だれもが当事者(支えられる側)でありなおかつ支える側でもあると思います。でもツイッターなどを見ていて、お仕事としての支援者の立場はハッキリしていてもボランティアであったりもっと目に見えにくい“誰かの支え手”としての自分というのは言い出しにくい世の中なのかな、と感じているんですよね。
介護をしていたり子育てをしたり、メンタルの弱っているパートナーを支えたり。もっと一般的には学校の後輩や職場の新人の面倒を見たり。それらの苦労やシンドさを振り返り、気づきと共に支え手としての自分を属性として語る「自分語り」って見当たらないんんですよね。あったとしてもシンドさは「愚痴」となって吐き出され、気づきは「現場のノウハウ」として個に属していない。
…当事者が己のやった行為に対してどういう意味を持ちどういった効果が得られるのかを考えるように、支えるためにとった行為が自分にとってどういう意味を持ちどういった効果が得られるのか。当事者の気持ちを知る機会が増えた中で非当事者の反応を研究する一方、その中間点である支える側の気持ちというのを聞く場、表現できる場が少ないし、もっとあるべきだと感じるんです。


そいうった思いがあり、この会を作りました。

 

 

 


【寄りそいの第一歩は「聞くこと」】

 


今回の会はお互いが傾聴ボランティアをやっていることもあって特に「聞くこと」について多く語り合いました。
話すと聞くのバランス、話し手と聞き手の意味合いの違い、上手いことを言いたいと思うのは自分が主体になっているから、〜しちゃいけないや言っちゃいけないという制約との向き合い方、自分を語らなければ聞くという行為はできない、等々聞くにまつわる話は尽きませんでした。
なかでも面白いなと思ったのは「気持ちというボール」を直接相手に投げるのではなくお互いの中間点の箱に投げ合ってそこにいい感じで作り上げる感覚があるということ。もしボールを直接投げた時でもあまりにあっさり投げ返すと(相手の言ったことをあっさり受け止めすぎると)思いっきり投げたつもりの当人にしては肩透かしというか不安を感じる場合もあると。それをうまく衝撃を感じて投げ返せるタイプならいいんですけど、けっこうそこらへんの表現が下手だったり(私たちはどちらもこのタイプだった)、もしくは慣れてきたりするとあっさり返しがちなんですよね。そこをわざと過剰に反応するというのもやっぱり違くて、あっさり派、下手派なりの受け取り方があるのでそこの気持ちを伝わるように反応するべきである…っていうのが面白い気づきでした。
…感情表現が下手な人って冷たい人だな、とか他人に興味がないって言われがちじゃない? そこらへんの想いも「他人から冷たい人間と言われる問題」としてもっとみんなで話し合ってみたいな。


あとは「重い話はしちゃいけないんじゃないかと感じてしまう問題」「ボランティアは無償だからうさんくさい問題」「ボランティアやってる自分問題」などなど…今後みんなで話し合っていきたいことがたくさん出てきました。

 

 


【支え手の悩み】

 


支える側って常に「上手くできたか、きちんとわかってあげられたか」という思いがあって不安なんですよね。そういった不安を抱くのは当然だし、でも「本当につらいのは当事者だから」ということで抑えて、我慢して、どっしりかまえて平気なフリしないといけないんです。
もちろんそんなやり方したらすぐ潰れます。だから矛盾を抱えたり、相手と自分を切り離してある種の「冷たさ」でもって接しなければいけない部分もあります。
でも誰よりも相手のことを気にかけて、心配しているんです。
こんな矛盾を抱えてまま、やりきれますか?
他人のことばかり考えて自分に目を向けることすらできない、してはいけないと思っている人だっているんです。絶対メチャクチャ溜まってるはずなんですよね。
当事者とは別種の生きづらさがそこにあるんです。それをあえて見てはいけない、悟られてはいけないって律してるんです。


じゃあそれはどこで吐き出すのか。うまく出せる場があればいいんですけど、なかなかない、っていう人も多いはずなんです。

 

 


【寄りそい方研究会今後の予定】

 


こういった会を開く際に「間口の広さをどのくらいにするのか」っていう問題についても話し合いました。広くしたら誰でもウェルカムになって良いんですけど(会の存続に多くの人に来てもらうっていうのは基本ですので)、そうすると「自分がこの会に行くべき人間だ!」っていう当事者意識が薄れちゃうんですよね。誰でもいい=自分じゃなくてもいい、みたいな。
来て欲しい人を明確にすると今度は「自分はそこまでじゃないから参加資格ないのかな?」って思われちゃうんです。私自身属性でカテゴライズするってのが嫌いで、誰もが当事者、誰もが支え手、そうじゃないと環境が、社会が変わらないからって常々考えているんですが当事者からしたら社会も他人も知ったこっちゃない、まず私をなんとかしてくれ、っていう切実な思いを持っているんですよね。
なのでまあ、どうしたらいいかっていう明確な答えはないのですが「間口は広くしておいいてテーマで絞り込む」というやり方が無難かな、と考えています。


以前ブログで「支援という言い方は相手も疲れる、できることも限られているし寄りそい、っていうのがせいぜいだ」みたいなこと書いて『寄りそい方研究会』って名付けたんですけど、やっぱりボランティアであれ仕事であれ、組織であれ個人であれ覚悟と責任を持ってやってる人がほとんどなんですよね。それによって当事者への内省やある種の痛みを伴う気づきをもたらす場合もあるし、それがどんなに「聞くだけ」とういスタンスを取ってもそういったものは両者に重さを持ってもたらされるものでありやはり「寄りそい」という言葉だけでなく「支える」という表現も、労いの気持ちを込めて使っていくことが適切ではないかと感じました。
なので『寄りそい方研究会』あらため『支え手の会』として、間口を広くしテーマをしぼり、今後も続けていきたい、というのが私の本音であり願いです。


なのでとりあえずは月に一度くらい、カフェでゆったりと都度テーマを決めて集まってやりたいと思います。
とりあえず考えているテーマとして
「傾聴」
「介護」
「子育て」
「異性/友達/家族の支え方」
「男/女の支え方」
「“推し”の支え方」
「ボランティアとしての自分」
など考えています。もし参加希望者で「こういうテーマで話したい!」というものがありましたら是非お聞かせください。


皆さんの「支えたい」という気持ちが巡り巡って、誰もが安心して支えてもらえる社会になれたらいいと思います。