「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

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よりもいを見終えて。誰もが主人公になる時代

『宇宙よりも遠い場所(通称よりもい)』全13話観終わりました。「アニメってすげぇな」って思いました。
南極を目指す女子高生四人組の青春物語は、自分の弱さ認め、それを支え合える仲間というものの素晴らしさを教えてくれました。
よりもい関連で色々と書きたいことはあるのですが、今回は観ていて自分が一番気になった部分を書きたいと思います。
それは「被害者と加害者の立場」です。

 


【被害者の形成】

 


この物語は徹底的に主役四人の心情にフォーカスして語られます。そこにあったのは「被害者としてのスティグマ(レッテル、差別)」で、それを削ぎ落とす旅としての南極行きがあったのだと私はとらえました。


周りからいつも「南極なんて行けるわけない」とバカにされ、陰口を叩かれてきた報瀬を筆頭にメンバーは皆友達との距離感や関係性の構築に苦慮し、傷ついてきました。
部活の友達の裏切りのせいで退部し、人が怖くなり高校を辞めてしまった日向。今までなにかと世話を焼いてくれてた親友のめぐっちゃんに嫉妬され旅立ちの当日に絶交を言い渡されたキマリ。芸能活動で友達を作ることが一切できなかった結月。
友達からつらい目にあわされてきた彼女達が「被害者」という属性を帯び随所に加害者たちに対する復讐が果たされていくのがこの物語のカタルシスであり一つの見どころでもありました。
南極に来る過程で四人で友情を深め、見事に到達出来たことで思いっきり空に向かって「ザマーミロ」と叫べるようになったりと、物語が進むにつれ加害者不在でも被害者としてのスティグマを剥がすことに成功していきます。
これは悪者が登場せず(加害者を悪者にすることなく)カタルシスがやってくる、観ていて非常にきれいでスッキリする流れがでした。とてもキレイなアニメだな、と思って観ていました。


その中で2点、めぐっちゃんとキマリの話と学校を辞めた日向と友達とのやりとりは実際に対決のシーンがしっかりと描かれました。


第11話で、彼女たちが南極からテレビ中継で地元の家族や友達と話をする、というときの出来事です。日向が人嫌いになり学校を辞めた原因にもなったその部活の友達たちがいけしゃあしゃあと「友達」として出演し、話をしようとしてきたんですよね。
日向本人はもちろん、事情を知っている皆にとっても私たち視聴者にとっても非常に腹の立つ相手です。よくそんな身勝手なことできるな、と多くの人が思って日向の動向を見ています。
すると今まで波風立てずに我慢して生きてきた日向に代わって、報瀬がカメラ向こうの相手に啖呵を切るんです。


「日向はもう前を見て進んでいる、実際にこうして南極にも来たしちゃんと友達もできた」


「あなたたちはそのままモヤモヤした気持ちを引きずって生きていきなよ!
人を傷つけて苦しめたんだよ、そのくらい抱えて生きていきなよ!
それが人を傷つけた代償だよ!
私の友達を傷つけた代償だよ!」


本当に胸のすく、気持ちのこもったシーンでした。物語としてこれ以上ないくらいのカタルシス。


でもこれ現実には見ないというか、やっちゃいけないことなんですよね。

 


【加害者の形成】

 


被害者がその被害者性で相手を傷つけたら加害者になるんです。
そうさせないためにも、ここでは日向本人ではなく友達の報瀬が言ったんでしょうけどね。また彼女らの新しくも麗しき友情を強調したいシーンだからでもあるんですが。
こうした「代弁」も危険です。
代弁者は本人ではない。前のシーンで日向にそこをたしなめられてたシーンもちゃんとあるんですよね。日向が気づかずに加害性をまとっていたシーンもあったり(麻雀の牌を勝手に見るやつね)、そういうのよくわかって作られてるな〜、と感心しました。


本当に、被害者はみんなこういうことが言いたいんですよ。そしてそこで自ら加害性をまとい、溝を深めていくんです。またそれとは別に自分と同じような立場の人たちに被害が及ぶんです。
障害者が「私の苦労をわかれ!」と叫べるのも健常者にきちんと接している障害者たちがいるからなんです。それに気づかない「声の大きな障害者」だけがクローズアップされがちですがこれは加害者性を浴びせられるのが嫌な健常者たち(誰だって嫌ですが)の反発を生み対立構造ができてしまいます。本来目指すべき分かり合いの道ではない、分断された世界です。


テレビカメラの向こうで「その苦しみを抱えて生きていけ」と突き放された加害者たち。こっちはもう幸せだ、という報せを挟んでいるのである程度の優しさは担保されており、さらにその人たちの反応を一切映さなかったことであくまでこれは「主役四人の話」でその場は終わりました。
この物語の場合はこれで正解なのですが、言い放たれた側の心情を思うとそこがやっぱりモヤモヤしちゃうんですよね。


ではどうやって被害者、加害者ともども救うのでしょうか。
そもそもそんなことが可能なのでしょうか。
その答えを描いた作品の一つが、最近私が特に押している漫画『ビースターズ』です。

 


【傷つくことで、誰もが主人公になれる】

 


擬人化された動物たちが学園生活を送るこの世界では、主人公のハイイロオオカミのレゴシは己の「肉食獣、捕食者、男としてのレッテル」に苦しみます。
草食獣、女の子から見たら絶対的加害者側の彼がウサギの彼女に向かって言うんです。

 

 

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レゴシは第1話から続く「食殺犯人」に対しても同じ思いを持っているんですよね。友人を食べて殺した圧倒的加害者に対しても「俺が幸せにする」と誓うんです。そのために自分が肉体的にも精神的にも傷つくことが代償として支払われていきます。
これ、多くの物語の主人公がずっとやってきている行動なんです。
自分が傷つくことで相手にも伝わる。私もあなたと一緒です、と。
お互い「愛」を渇望している点では被害者も加害者も一緒なんですよね(ビースターズについては書きたいことがたくさんあるのでまた後日)。

 

 


報瀬はカメラ越しにこうも思っていたんじゃないかな。
「だからあんた達も傷ついて、主人公になれ」と。

 


被害者である自分が加害者になるかもしれない、それでもそういった傷ついた心を抱えて生きていく。それを体現して抱える、そうすることで被害者でもない加害者でもない、そういった属性を超えた分かり合いの境地の話になる。


過去の時代、マイノリティは「自己責任」の社会でした。
それから悪いのは(障害は)本人に帰属するのではなく「環境側にある」という認識に変わりました。歩けない本人のせいではなく、スロープやエレベーターのある環境、支え合える社会になることが目指されました。支える側、マジョリティ側が当事者意識をもってこそ変わる時代なんです。
「依存症は本人のせい」はもう古いんです。
非当事者が当事者の、マジョリティがマイノリティの気持ちを分かり合おうとしている時代から先の、「その逆」が行われている時代です。
なぜ自分たちはそこまで自己責任を問うのか、加害者を責めるのか。そういう気持ちが対立や加害性の永続をうながしているのではないか。
今や助けが必要なのは非当事者、加害者、マジョリティです。むしろここが救われてこそ少数派たちの生きやすさが生まれるのです。
そういった二分性の属性、レッテル貼りの時代の終焉が来ているのです。


「人を傷つけた、人を傷つけてしまう」という気持ちを抱えて生きていく。その代償として自分が傷つく覚悟がある。属性や肩書きではない、一人一人が主人公になれる。わたし達はそういう時代を生きているんです。

 

 


もう一つの対決、めぐっちゃんとキマリの対決ですが。
よりもいを最後まで観た人ならわかる、めぐっちゃんのとった行動。あれもそういった答えの一つですよね。彼女は自分が人を傷つけたことに気づき、自分の弱さを認めた。キマリが指摘したわけではないのですが、キマリの存在がそれを気づかせた。
そこでめぐっちゃんも自分で自分の道を歩むことを決め、主人公になれたんです。
 


とても力強い、アニメでしたね。