「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

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「誘ってきたのは向こうの方だ」と本気で思っている男とそれを無視して責めるだけの女はお互い生きづらさを抱える覚悟が足りない、そこで『ビースターズ』

最近『ビースターズ』という生きづらさ満載のマンガが好きで、来年一月に読書会やりたいと考えています。なのでビースターズ関連のツイートが増える…かもしれない。

 

 

BEASTARS 1 (少年チャンピオン・コミックス)

BEASTARS 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 

 

 


今回のブログでは第1巻第4話「ウサギ史上でもかなり悪い日」におけるこの物語のヒロインであるドワーフ種の雌ウサギ、ハル初登場の回について書きたいと思います。


このマンガは肉食動物と草食動物が共存して学園生活を送るというもので、そいうった「違う立場のものたちの交流」が一つのテーマになっています。主人公のハイイロオオカミのレゴシとハルという「狩る側/捕食される側」「男/女」の2人がメインとなって話は進んでいきます。


最初の三話まではレゴシはやさしくみんなを守るヒーローとして描かれています。しかし4話目で今度はハル側の視点となり偶然とはいえレゴシに押さえ込まれた恐怖の体験が描かれます。今まで主人公側としてレゴシと自分を重ねていた多くの読者はいきなり意図しない「加害者」としての立場に突き落とされてしまいます。

 

 

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レゴシの勘違いからそういう状況になっているので普通でしたら「この女勘違いしてるよ、バカだなあ」って思うのかもしれませんが、ハルの被害者側としての恐怖があまりに生々しく、今までの生き様とあいまってハルの気持ちに驚き…とまどってしまいます。こちらの気持ちはどうあれ、他者がどう感じるかで自分は加害者にもなる、ということを見せつけられるんです。


男という存在(属性)だけで圧倒的な暴力性を振るうことができる、自分では無自覚でも相手から見たらもう存在そのものがそうなる。ハルを通して、フィクションを通してそれに気づかされる…もちろんこちらがどのように感じるかは自由なんですが。
ハルもレゴシもどちらも狩られる側、狩る側のレッテルから逃れようともがく同志とも言えるんですが、その姿はかなり見ていて「生きづらい」です。そういった苦しみを感じ続けられる人と全く無自覚に生きている人、ここが対話ややりとり、共感をすることで世界を、環境を変えようよ、とこのマンガは語っているように感じます。

 

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「痴漢じゃない、誘ってきたのは向こうからだ」というストーリーが出来上がっている人には、こちら側のストーリーを伝えることで「守る」ことが大事になってきます。あなたにとっての考え、意見は尊重します。ただしこちら側の気持ちも、権利も尊重してくださいね、と。
よく男性側、加害者側の気持ちや意見を無視してボロクソに叩く意見も見るんですが、それだと相手の権利を無視している時点で同じなんですよね。それでやられた側は余計に窮屈になって反発して、お互いが罵り合うだけの不毛なやりとりが続いてしまう。


「イヤらしい目で見てしまう気持ちもわかる、でもそういう目で見られたくないこちらの気持ちも理解してほしい」
「優しくしたことでこちらに好意をもつのもわかる、でもそこまでのつもりでもないし迷惑になっていることもわかってほしい」


お互いがお互いを尊重していかないと、ただ権利の主張しているだけでなにも解決しません。
「そういったことを言える状態、雰囲気にすらできないし怖いんだから、そっちで察してよ」という意見もわかります。ただ察するためにもそういう気持ちの人がいる、ということが世間の共通認識として浸透しないとなかなか無自覚な人にまで届かないというのが現状なんですよね。
このマンガはそういった世界を目指すためにもひじょうにわかりやすい道標として役立つ要素を備えています。じっさいに多くの人に読まれて支持されているというのがそう思っている人が多い証拠なんじゃないでしょうか。

 

 


創作したり表現したりすることで、絶望を希望に変えることもできます。
つらい目にあった人だからこそ伝えられる想いがあります。

 


レゴシもハルも、どんなに相手のことを信頼していても本能に逆らえず食べそうになったり食べられそうになったりを繰り返しています。それこそもう「お約束」になちゃうくらい。それが見ていて悲しくもあり可笑しさも漂ってきます。
それでもそういったお互いの生きづらさ、苦しさがあるというのを知っているから2人は寄り添うことができる。理解しようと努力し続けてきたからの信頼がある。
お互いが本能レベルで抱えるそのどうしようもなさ、それを自覚しつつも真摯に向き合って苦しむ。


その原動力として相手への「尊重」の気持ちがあるからできることなんじゃないかな。


そしてそれが大きなくくりとしての「愛」なんじゃないでしょうかね。