「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

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メンヘラについて私が思うこと その一

なぜ次回の生きづらさ研究会のテーマにメンヘラを選んだのか、メンヘラについて私自身どう思っているのか、色々な思いがあって簡単には書けない。なのでしばらくその都度思ったことを書いていこうと思う。簡単でないという気持ちから「その一」なんて逃げのタイトルをつけてしまうほどに恐れと好奇心が入り混じっている。
なぜそんなにメンヘラにこだわるのかというと、メンヘラを考えることは生きづらさを考えることであり、生きづらさを考えるということは生きるとは何かを考えることではないか。そう推察した結果としてのこだわりである。
そして最近の私は、生きづらさが好きすぎるのである。
 
 
メンヘラという言葉は自分の生き方、生きづらさ、思想、価値観、嗜好をわかりやすく他者に伝えるための「属性」「道具」である。わかりやすさを優先させていったからこその奇抜さや派手さ、魅力の高さなのだと。その結果が本来の意味である「メンタルヘルスに問題を抱えた人」という枠組みを超えて現在のようにPOPで刹那的な、嫌悪感と魅力を同時に兼ねそろえた「大衆的でゲスいもの」に変化していったとしたら…身近で愛おしく、自虐的に使いやすいのも合点がいく。
それほどに内面のつらさを他者に知ってもらうのが難しいということもわかる。
 
 
メンヘラのことを考えていくに「メンヘラ.jp」の記事を参考にさせていただくことが多くなると思うのだが、さっそく最初のメンヘラに関する記事に思うところがあった。
 
 
 
この中には「受け入れることは良いが肯定することは価値があると判断してしまうことであり、そこから脱しするのが難しくなるのでよろしくない」ということが書かれている。
もちろんメンヘラを寛解すること、脱することが大事であり、そうしたくて苦しんでいる人も多いだろう。もちろん自分のメンヘラ性によって今を生かされている人もいるので簡単に否定するのではなく、そんなあなたを「受け入れる」ことが必要である。「メンヘラであるあなたはあなたでいいんだよ」という気持ちを伝え、寄りそうことは孤立を防ぐ意味でとても大切なことである。
ここでしっかり感じて欲しいのは「メンヘラ」と「あなた」は違うということだ。
自傷自虐をしたり依存をしたり、そういった苦しみ・生きづらさの部分を周りが肯定しなかったからといってそれはあなた自身を肯定しない、価値がないと言っているわけではない。
どうしてもメンヘラ性を否定されると自分自身も否定されている気になってしまうものだが、多くの他者が恐れているのはメンヘラのもたらすそういった「わかりやすい派手な部分」であり、あなた自身の抱える「あなたの本心」はきちんと伝えていく必要がある。周りもそこにこそ注目していかねばならない。
心の訴えをなんとかしてしようとするあまりメンヘラはわかりやすさと過激さを優先させてしまいそれによってたしかに気づかれやすく、つながりやすくはなった。その反面すぐにわかった気になってしまうという危険性がある。「ああ、メンヘラって〇〇でしょ」「メンヘラは●●だから」というコミュニケーション不在、あなた自身の不在のやり取りが頻繁に起こることになる。
 
メンヘラ性は今のあなたを知る「入り口」であり、真に大切なのはその中に入ることだ。入り口を見て帰るのも入るのも自由だがそこから中にはいることではじめて「受け入れる」ということになる。中に入らずメンヘラを語るということはやはりそれは外側であり、一部ではあっても本質ではない。
 
そういった中に入る行為がこの「生きづらさ研究会」のやりたいことの一つだ。こちらは安心して話せる環境を整えておくので、あなたは自身の本心を語ることを恐れつつも楽しみにしてほしい。
そしてあなたの中にある生きづらさというのは、誰もが持ち合わせている共通のストーリーであることを知ってほしい。
 
あなたは一人ではない、ということを感じてほしいのだ。