「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

8/22(水)8/25(土)第5回、第6回生きづらさ研究会「メンヘラから読み解く私たちの生きづらさ」開催します

第三回生きづらさ研究会 テーマ「恋愛感情・恋愛指向」レポート

三回目となりました生きづらさ研究会のレポートです。
マンションの一室にある小さな貸し会議室内においてアロマンティック(性的関心はあるけど恋愛感情はない、かも)の女性二名、恋愛感情はある女性と私の四名(+書記一名)での開催となりました。
恋愛感情がないゆえの恋人への申し訳なさ、そもそも恋愛感情というものがわからない、恋愛感情があるゆえのつらさなど、テーマに沿った話し合いが行われました。
テーマに即した思いというのは各自新しい発見や気付きがあったと思います。それは各々の胸の内やブログなどで改めて述べられるかもしれませんし、後日また可能であれば聞き取りさせていただいて会の感想、その後の変化、語り足りない生きづらさなどをまた、ホームページなどで発表していきたいと思います(私自身は過去の結婚・離婚の体験が根深くて、これについて研究することが必要だと気づいた)。
 
そんな中私自身が一番興味をいだいたのは「生きづらさ」そのものでした。
以前の会でもそうだったのですがテーマについて話していると自然とそこの根っこにあるものが見えてきて、それが生きづらさという概念でありそれをしっかりと探っていくことでテーマに対する知識や発見が増えて「そういうことだったのか!」という瞬間が訪れる気がします。
一個人として、生きづらさ研究会主催者として、どうしてもそこに目が行ってしまうので会に出た個々の知見に関しては取り上げずに今回のこの会を通しての「生きづらさ」に対するわたし自身の思いを書いていきます。
 
 
 

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【勇気をもらえるグルーヴ感】
 
以前の会でも感じたのですが、この独特の臨場感・高揚感はなんなんだろう。
「なかなか人に話せなかったことをその日初めてあった者同士で話し合う」という非日常感も後押ししているのかもしれません。このグルーヴ感はじっさいにこの場に来てみてから初めて感じられるものでしょう。
初めは皆さん緊張が大きかったでしょうが、だんだん前のめりになって言葉を発したり考えを染み込ませる瞬間があり、頭の中で思いや気持ちを皆で揺り動かすさまは「生きづらさ」という一見向き合いたくない嫌な事柄に対しても対峙できる勇気を与えてくれます。
「生きづらさ」はこちらを過去や未来や絶望の穴にとらえて動けない状態にしてきます。「今、ここ」の感覚を大事にしながら、そして「聞き手」という仲間を力を借りていくことでなんとか語っていくことができます。
文字や動画のみでの集い、話し合いも便利で良いのでしょうがじっさいに会場に来てみての一体感、グルーヴ感はこの会の価値の一つだと思っています。気になる方はぜひ来てみて体感して味わっていただきたいと思います。
 
 
 
【ある側のつらさ、ない側のつらさ、お互いを知ること】
 
恋愛感情がある側もつらさがある。恋愛感情がないというつらさもある。そのつらさを与えるのはだれか?
少数派に対する、多数派だ。恋愛感情があっても満たされない者がいる。恋愛感情はあって当たり前、むしろ当たり前という認識をしていることにすら気づかない。恋をして、セックスをして、結婚をして、子を生み、家庭を作る。多数派にそう思い込ませているのは、だれ?
 
○○しなきゃならない、○○して当たり前という概念は、生きづらさをもたらす。
 
恋愛感情を持たない人は誰かとつきあってはいけないのだろうか?
 
 
 
【大きな主語】
 
私の持論だが、大きな主語で話をするとそれは聞く側にとって生きづらさをもたらす。
男とは○○だ。女なら○○すべきだ。みんながそうだから。普通はこうするから。
 
あなた自身の気持ちはどうなのだろう? それが知りたい。
 
「大きな主語にしないと人は注目しない。けれどそんな姿勢はいつか怒られるんじゃないかという恐怖になる」
 
それが必要になる場合もあるだろう。ただ、自分だけの体験を、気持ちを語ることを忘れてはならない。生きづらさ研究会(当事者研究会)は、自分の物語を再構築する場だ。話をすることで聞く側(環境)が変化する。発表者以外の人間の認識がどんどん変わっていく。個人的な話が、周りを、多数派を、制度を、国を変える。
大きな主語を、属性を借りなくても可能なことだ。そのためにはしっかりと「聴く」ことが必要になる。
 
大きな主語にすると、個人が取り残される。
 
アセクシャルの会に出たとき、性的関心はある自分の居場所がなかった」
 
属性や病名を与えられることで安心感が生まれる。そこでうまく安心を感じられる人はいいだろう。でもみんな、個人個人で微妙に違ってくる。全く同じ人間なんていない。ちょっとした差異を無視して固まる団結力は本当に個人の幸せにつながるのだろうか。
そもそも当事者研究は運動ではなく研究をすることで周りの環境を変えていく試みでもある。
 
 
 
【世界の解像度・まとめられてしまうこと】
 
ホワイトボードの写真にもあるのだが「恋愛というものをひとまとめにされるとなんだかわからない」という話になった。
「恋愛感情がない」ということはそもそもそれがなんだかわららないから苦しんでいるという部分もあるのだ。
 
たしかに、改めて考えるとわからない。わかったつもりで生活している。よくわからないものを「ある」とはいえない。
 
複数の感情が、概念があわさって「恋愛感情」というものになっているのだろうが普段は「こういうもんだ」と大雑把に、強引にまとめられている。あらためて解像度をあげてみるとその内包されているモノたちにとらわれていき、自分の感じているものが皆と同じものでないように思えてくる。そもそも感じ方、捉え方に全く同じなんてことはありえないはずなのに私たちはいろいろな理由でひとまとめにして安心を得ている。
 
定型発達の人には想像できない感覚過敏の世界では一輪のきれいな花も顕微鏡レベルの解像度でとらえるとなにか未知の得体の知れない者の集積に見えてくる。見えている世界が違うのだ。その違いに気づくために必要なことの一つが決めつけのない話し合いだ。
 
心やコミュニケーションの問題ではなく、捉え方の問題。世界がどう見えているのか。ひとりひとり違う。
 
 
 

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【自分が嫌い。自分が好きという言葉との階層の違い】
 
 
会が終わってファミレスでの二次会の時に「自分が嫌い」という話を聞いた。その場で深く聴くことはできなかったけど会をやるたびに思う「生きづらさの根深さ」というもの。
 
ちょっと集まって数時間話しただけではとてもまだ十分とはいえない。今回もまだまだ聞き足りないこと、言い足りないことが私にも参加者のみなさんにもあったと思います。
 
 
今後の活動方針も含めて次回のブログに「生きづらさ研究会のこれから」を書きますので、これまでの参加者の皆さんや行ってみようかどうか迷っている方たちも含めて、みなさんの生きづらさにしっかりよりそえるような活動をしていきたいと思います。