「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

生きづらさコレクターぎりさんのブログです。生きづらさ研究会のテーマ&参加者募集中!

当事者研究会とは

本日は当事者研究の第一人者である熊谷晋一郎先生のシンポジウムに参加してきました。
この生きづらさ研究会はわたくしぎりさんが「ボランティアで活用している精神や技術である傾聴」+「当事者研究」のいいとこ取りをしたい、という気持ちから始まっています。
なので久しぶりに原点に帰って「当事者研究とは何か」を講演をふりかえりながらみなさんにお伝えしていきます。この生きづらさ研究会に出ることで一体どんな効果があるのか、なにが起きるのか、ということがわかると思います。
これを受けての私の生きづらさ研究会の方針、みたいなものもあらためて後日綴りたいと思います、とりあえず今日のところは会の発言を列挙する感じで。
 
 
最初はいつもながら熊谷先生の生い立ちの語りから始まり当事者研究の話へと移行していきます。
 
『車椅子だったり手の変形がある私のような障害者は見えやすい。表現しなくても周りが動いてくれるんです。コミュニケーションや表現のコストが少なくてすむ。むしろ(健常者が持つ)見えにくい障害は本人からも見えにくい。これは二重の生きづらさとなります。
当事者研究というのは「自分を変える」に先行して「自分を知る」を行っていくものです。自分を変えるとは医療やリハビリのことであり、自分を知っていくことは環境側に働きかける、変わるということである(障害というのは本人のものではなく環境が抱えているものである)』
 
そこで本日参加の、もうお一方の専門家バリアフリーの研究者福島智教授から当事者研究に向けての批判が投げかけられました。
 
1,当事者研究のいう当事者とは誰なのか。障害者からスタートした当事者研究だが、制約・制限があり、一定のブレーキが掛かっているのではないか、ということ。
 
2, 解決、概念、創出は素晴らしいがそういう柔軟さ、流動さは予想外のコミュニケーションや暴走、特定の当事者に嫌な思いをさせたりということにつながるのではないか。そこらへんのリスクマネージメントはどうなっているのか。
 
の2点においてです。
 
この疑念に対して熊谷先生はそれぞれに「広がり」と「方法」の問題として、答えられました。
 
1の【当事者とは誰なのか】という問に対して、『特定の障害名を持った人を当事者としてしているわけではない。与えられている人よりはむしろ付与されていない人たち。何らかの困りごとを自覚している人はすべて当事者です。その最たるものが健常者であり、近年最大のトピックである』と。
『今一番自分の苦労を発せられないのは健常者。きわめて日常的に射程の広い取り組みである』
 
これはたしかにそうですよね。生きづらさは障害者だけでなく健常者にもある。皆んなのつらいを「見える化」すること、自分ばかり・自分だけがつらいんだという思いは苦しさを増すだけです。
 
2の【当事者研究の方法】に関しては、『Recovery is Discovery 回復とは発見である』という言葉から説明しています。この場合の回復は(医学モデルとは違う側面での)生きやすさ、ということ。発見は研究ですね。当事者研究をやっていく上で具合が悪くなるようなことはさけなければなりません。
具体的な方法として2つ、まずは「自分を二重化する、外在化する」ということ。つらさの原因を探す、犯人探しをするのではなく俯瞰する。苦労する自分と研究する自分を分けるということ。もう一つは「反芻するのではなく省察する」ということ。反芻は自分や他人を責めること、省察は知的好奇心に基づいて自分のことを価値観なしにしっかり観察し、分析をすること…この2つを行うために当事者研究で欠かせないものとしての「ホワイトボード」があるんですよね。
注意として逆になってはいけない、ということ。新しいセラピーとして当事者研究の需要があるが、回復は目的ではなく手段である、発見こそが目的である、と。そもそも『回復を目指すと回復はしない』と。
 
『仲間の物語を参照しながら自分の物語を書いていくことが回復につながる』ということであり『それを妨げるのがスティグマ(ネガティブな意味のレッテル)である』と。
 
そして「発見」の方ですが、何を発見するかというと『私というもの発見する、それは身体的な私とストーリーとしての私である』と。
たとえとして、寝る前に甘いモノを食べるクセをやめたいと考えたとします。そこで、甘いものが自分にとってどういう意味を持つのかを当事者研究しました。するとそこには「安心して眠れる」という意味があるのに気づきました。その必要なものをやめるのがどんなに大変か。これを他者の問題と考えたとしたら「そんなの辞めたほうがいいよ」と簡単に奪うことができる。どんなに大切かを発見、確認することで「自分にとってなにが生きやすいのか」がわかる。その後、ではどうしたらいいかという代替案を考え、データを積み上げ、仮説を立て、実験をし、フィードバックしていく。
同じく参加者のダルク女性ハウスの上岡さんの言葉ですが『依存症をやめることは始まりである。虐待や暴力といった痛みは、何かにのめり込まないと生きてはいけない。やめたら周りは喜ぶが本人は喜ばない』『依存者は、依存していなきゃもっと早く死んでいたと言う』『今日の回復を使って生きていく』
 
『自分だけがもつつらさ、自分特有の世界の見え方、それを見える化する、言語化するとういのは一人ではできない。ズレの生まれた経験や問いの生まれた場所、そこを見逃さない。そして仲間を持つこと、長い目で見ること。日常からずっと探し続ける必要がある。すぐに見つかったりするものではない』
 
最後の質疑応答において「周囲の無理解がつらい」というものに対し、熊谷先生はこう答えられました。
 
『世界的に、本人の努力や意思で克服できると思われている属性はスティグマを貼られやすい、その意味では見えにくい障害は貼られやすい』と。これは発達障害とか、つい○○してしまうとか、眠れないとかなんでも当てはまりますよね。よく言われる「メンヘラは甘え」もそうです。
スティグマの剥がし方としては『当事者の語りを聞くこと。それも上からの発言や教育的な、あるいは異議申し立てのようなものではなく、正直に、経験や気持ちを話すことが必要。チャレンジです』とおっしゃっていました。