「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

8/22(水)8/25(土)第5回、第6回生きづらさ研究会「メンヘラから読み解く私たちの生きづらさ」開催します

メンヘラという言葉を定義する意義

私の生きづらさ研究会の記事も掲載していただいた『メンヘラ.jp』のサイトでは何度も「メンヘラ」という言葉の定義を伝えようとしています。なぜ、そこまでこだわるのか。
 
 
 
それだけこの言葉が多義的に使われているということであり、定義することに意義があると思われているからやられているんですよね。
 
「心の健康に問題を抱えた人」という、いたってシンプルなものの中にこめられた侮蔑的なニュアンス、そいうった部分と区別するために出てきた、言葉の定義の変遷が当事者同士の区別をつけることにもなり、本来同じであったはずの支え合いが時として「自分とあの人は違う」という感覚を生み出してしまう。
 
共有していくはずのものが身内での敵意ともなり得ることにもなり、本来外へと向かうべき視点がお互いへの監視と拒絶の視線となり、よけいな疲弊や悲しみをもたらしています。
 
“なぜ、そのような「メンヘラ」用法に強く拘るのか。それは我々が「メンヘラ」を紐帯のためのことばであると考えているからです。”
 
と書かれてあるように、支え合うべき名付けが逆に皆をバラバラにしてしまっていることを危惧し、悲しんでいるのです。
 
 
 
 
先日当事者研究の第一人者である熊谷晋一郎氏の講演で、おっしゃっていた言葉に
 
「カテゴリー的な個性の記述ではなく、ディメンション(次元)的なやり方を模索する」
 
というものがありました。「あの人は○○だから、☓☓だから」というくくりでなくより細かく個々を見ることが大事であると。もちろん名付けることでの顕在化があり、安心感、連帯感もありますので「メンヘラ」という言葉にもそういうものを含めつつ個々のことをしっかり見ていく、ということが大事になります。
 
「自分はメンヘラだから」「メンヘラじゃないから」「○○してないから、メンヘラじゃない」
そいういったことで自己を揺らがらせることをなくし、広く大きく認めあい支えあうために「メンヘラ」という言葉をもう一度定義づけすることが必要なんです。
 
 
孤立を防ぐためのつながりには安心感が含まれています。メンヘラという言葉を出した時に感じるものの中に大らかな安心感も含まれていてほしい。そう願っています。