「生きづらさ研究会」主催ぎりさんのブログ

生きづらさコレクターぎりさんのブログです。生きづらさ研究会のテーマ&参加者募集中!

『メンヘラ当事者研究会』に参加して改めてわかった「じぶんのやりたいこと」

「メンヘラ当事者研究会」という会に何度か参加させていただいてます。2月24日に開催第された第六回にも行ってきました。

そのサイトでの当事者研究会についての詳しい説明です。

menhera.jp



テーマに沿っていろいろなしんどさ、生きづらさを抱えている人たちが集まって話し合う会です。今回はテーマに沿ったレポートというよりはわたし自身が感じた「自分なりの当事者研究会の意義」を書きたいと思います。
それは傾聴ボランティアをやっている自分が今後何をやっていきたいのかに気づく会でもありました。


当事者研究会は「自分事」としてのライブ感が良い】


その日のテーマ、たとえば今回の「がんばること」などに対しての様々な意見や体験、その中で自分たちを救うための鍵となりそうな要素をホワイトボードに書き込んでいくのが研究方法なんだけど、単純にそれ単体で他者の解決策だったり対処法としてスポッときれいに当てはまるわけではないんです。自分がやってきた方法や価値観、考え方、知識に共感/違和感という形で結びつくことで初めて腑に落ちたり試してみよう、ということになっていくんですよね。
今回の私の例でいうと、「守るべきものがあるとがんばれる」という他の方の言葉にすごく共感したのですが、たぶんその言葉だけを解決策の一つとして誰かからポン、と言い渡されてもうまく自分の事として響いてはこなかったはずなんです。
「…そういえば今まで自分ががんばってこれたって言えるとき、家族とか、彼女とか、お客さんのためとか、そういうもののためなら全然苦もなくやってこれたな…」という自分の中での気付きがあってはじめて「じゃあこれからも守るべきものをはっきりさせていけばがんばれるんじゃないのかな」っていう新しい発見につながったんです。

単純に「わたしにはこれが役にたったから」「一般的にいえばこうした方が良いから」という理由で提案されてももなかなか自分と結びつきにくい。当事者研究会は「自分と同じような思いをもった人が誰に邪魔されることなく語る」という場の雰囲気・約束事がある。「指示する専門家と患者」といった役割や立場ではなく当事者同士として、皆が相互性を持って参加しています。
参加者全員が一緒につくる安心・安全の感覚が語る・聞ける環境を生み出しているので、そこで出た要素、言葉たちは参加者たちの「実感のあるもの」として語られるので参加者はそれを自分事として持ち帰ってこれるんじゃないかと感じるんです。



「2つの不満点からみる自分のやりたいこと」


その1 「普通の人」と「普通じゃない人」という考え方から二元論的発想にまで行かないようにしたい。


えーっと、わたしが今回参加して「がんばる」ということについて最終的に思ったのは自分と他者(親、友達、学校、会社、社会)との認識のズレがしんどさ、つらさを生じさせているのではないか、と。もちろんそれはがんばることだけに限ったことではないのですが。

『普通の人のがんばるとメンヘラの人のがんばるは違う』っていう意見があって、普通の人はゼロの状態からがんばれるけどメンヘラはマイナスの状態から始めないといけないのでがんばりのスタートが違う、そもそもメンタルの問題を解決しないとスタートもできない、と。
普通の人と普通でないメンヘラの人、という両者間のズレ。他人のがんばりを感じられる、そういう社会になったらいいな、というシンプルな思いとともにでもこの二者をわけて考える状況そのものがやっかいだな、とも感じたんです。
他の当事者研究会はわからないのですが、この会にいるとけっこう「自分たちメンヘラの意見」という言い方が出て、それを共有し共感していくことは安心やつながりが感じられて良いことなのですが普通の人たちの意見がないのでけっきょく両者の溝は埋まらないままで、このスタイルではメンヘラたちの環境は変わらないままなのでは、という危惧を感じたんです。
もちろんこの場で大事なのは自分事としてのつらさなのですが私がやっぱり普通の人の側、ボランティアをやって支える側っていう気持ちもあるからそこも大事にしたいんだと考えちゃうんでしょう。でもわたしもちょいちょいぶっ壊れてますし、全然がんばれてなかった人間だし、そういう「普通の人だって普通に見えてるだけで、けっこういろいろあるんだぜ」みたいな視点もほしいんですよね。本当にメンタルが落ちている時は他人のことなんて考える余裕なんて1%もないし(本来そういうことに長けている、繊細な人たちがメンヘラになりやすかったりするんだけど)、自分のつらさをわかってほしいっていう気持ちでいっぱいなんだけど、それでも支えている側も同じ人間だってことを忘れてほしくないんですよね。


わたしが傾聴ボランティアをやっていて感じるのは人の生きづらさ、死にたくなる気持ちは「孤立」の要因がすごく大きいってことです。だからそうならないようなるべくコミュニケーションを大事にしてほしいし、年齢や性別、立場や障害の等級などで分断したくない。
これは決して「意見の合わない人やコミュニティと無理になじめ」とか「自分の理解できない人、理解してくれない人ともがんばってつきあえ」ということではなく「自分のことは誰も分かってくれない」と自ら孤立を選ぶようなことはしないでほしい、お互いがわかりあえるという可能性を「立場が違うから」という理由で手放してほしくない、ということです。「自分が自分と一緒にいるための孤独」は必要ですし、いらないものは断舎離することで生きやすさを手にすることもできます。人間関係もそうでしょう。それでも自分が安心できる、楽になれるつながりがあるのならば、それを大事にしてほしい。「がんばっている自分」「むりやりがんばっている自分」「がんばらない自分」「がんばりたくてもがんばれない自分」いろいろな自分を許してくれる相手、助けてくれる社会があるのがいいな、と感じます。
「主観的な問題意識を持つ」こと、そしてそれを「共有していく」ことが良き当事者研究会のあり方、なんじゃないかなーって。



その2 待つ時間がほしい

二つ目は単純です、時間がほしい。誰かの言ったことを自分の奥まで染み込ませるのって時間がかかるんですよね。傾聴ボランティアの講習で「会話がポンポンと続いている時は要注意」って言われてて。すぐ返事が返ってくるってことは考えなくてもすぐ答えられることを訊いているか定型的に答えていたりする場合が多いんです。すぐ答えられることを訊いているってことは深掘りできるような問いかけをしているわけではないですし、定型的な答えってのは「これを言っておけばとりあえず相手は喜んでくれるだろう」みたいな場合もあります。
事柄や出来事を聞いているときも比較的ラクにふんふん、って聞けます。だけどそういうのっていくら聞いても気持ちは深まっていかないんですよね。頭の回転が速い人同士なら会話はポンポンいくかもしれませんがそれは共通体験や知識があるからで。でもそれが共感でつながったときほど「ほんとうにささいな、微妙な違い」にも気づきやすいんですよね。だいたいこういうことだよね、っていう大雑把な「わかったつもり」で話すよりも少しのズレや違和感を感じながらの会話のほうが「何かが起きようとしている」んです。そのための沈黙や間って大事だと思うんです。
わたしは頭の回転が早いわけでもなければすごい体験をもってもいない、知識が豊富にあるわけでもない。でも最近は「相手の微妙な心の揺れ」みたいなものが声のトーンや間や雰囲気から感じられるようになってきたんです。ボランティアの指導者たちからは「そういうの(才能?)はあるよね」って言われるんですけど、だからこそそれに気づいた時には「相手にツッコむ勇気」が必要なんです。遠慮や同情、思い込みや関心の欠如があると積極的傾聴にならないんですよね。
「ピアノが好きで習っているんだよね」「そうか、私もやってたことがあるよ、〇〇が●●で…」って共通の体験や知識があれば会話ははずむでしょうが、もし話し手の言い方や雰囲気に(ため息つきながらとか表情が曇ったりといった)違和感を感じたら「好きって…どんなふうに?」というように体験や知識でない部分(それは概ね「気持ち」の部分です)、そこに会話の焦点がいくでしょう。ここでも話し手が本当に好きならば会話は続くでしょうが、そこになにか事情がある場合はためらいや自分の心に問う時間ができるでしょう。言いにくいことを言うのは時間がかかるものなんです。そういう相手を待たせる時間、考えさせる時間がより深い気持ちの発露につながっていくと思います。

…だからって十数人の集団が3時間もない時間の中でそこまで自分の気持ちを充分に話す!なんてことはほぼ無理ってことは、よーくわかってるんですけどね(笑)! 他者の話を聞くってことも話すことと同様に大事なことだってのもわかってるんですけど、やっぱり気持ちを聴いてもらっているから他の人の話を聞く余裕も生まれるんですよね。あのことを話したい…あれを言わなきゃ…って思っているうちはなかなか人の話、入ってこないですから。
会としての進行がある以上、ごく少数の人にだけ焦点を当てて回していくわけにもいきませんし、発言が得意な人がいれば苦手な人もいる。前に書いたようにその場のライブ感を大事にするなら時を止めた状態というのは好ましくないのかもしれませんが、考えているときも時は動いている。その沈黙に耐えられないのはたいてい「聞き手側」でして、聞き手がペースを握ると話し手はどんどん苦しくなってっちゃうんです。

当事者研究会は「研究をしていく」っていう要素もあるわけで、ただずっと傾聴だけしている場ではないので、もし自分がやるんだったらもっと「聴く」「話す」「考える(沈黙する)」ことにバランス良く焦点を当てた方法ができたらいいな〜って思います。それが当事者研究会という形になるのかどうかわからないけど。
多分わたしは当事者研究会の「つらさを外在化して皆で共有する、話し合う」という部分と傾聴の「言いづらい部分を聴く、そのための関係性を築く」という部分のいいとこ取りがしたいんでしょう。関係性、共有・共感、というところがカギでしょうか。

今回参加してみて、そういった『自分はなにがしたいのか』っていうのがよりハッキリとしたのが収穫だったなと思います。こういう自分なりの気付きが得られるのもありがたいですね。


当事者の生きづらさを緩和するためには「当事者の心をラクにするための自分語り(の場、人)」が必要であり、そこは「非当事者との境界をなくす場」でもあり、良き語りが行われるためには良き聴ける環境が必要、というところでの自分の傾聴ボランティアの経験を生かした場作りが出来るのではないかと考えています。
 
ということで次回のブログに続きます〜。