生きづらさマガジン

みんなの生きづらさが集まる場。まずは、自分のために。

第4回生きづらさ研究会 「家族」「恋愛依存」はこんな感じでした。

2018年7月28日、品川にて第4回生きづらさ研究会が行われました。
台風来てたけどね! 参加者定員ギリの8人だったけど結局来たのは女性3人プラス私だけだったけどね!! でもこんな嵐の中来てくれただけでうれしかったさ! 参加できなかった人は次また来てね!待ってるよ!
 
ということで今回は初の二部構成、前半は「家族」について後半は「恋愛依存」について話し合いました。
 
 

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詳細はホワイトボードの各写真を見ていただくとして。本当は参加者さんがブログなどをあげたらそちらのリンクを紹介していきたいんですよね。各々の感想や後日チャットをして詳しくお気持ちを聞かせていただいてそちらを公開した方がより個人に紐付いていて価値があると思うんです。
前身である「当事者研究会」のもつ“語りのよって無理解な社会に向けた変化を促す、運動的要素”も意識して行くべきなのかとか、この生きづらさ研究会自体の方向性も毎回開くたびに考えさせられるんですよね。生きづらさ研究会のホームページ、あれを参加者の声の集積地にしたくて。そうやってこの会自体を「メディア化」するのも一つの方法かな、とか。もちろん参加者自体への働きかけの方法もまだまだ模索中です。
 
なので今回の感想は、私自身が個人的につよく印象に残った言葉や考え方だけ書いていきますね。
 
 
 
【メンヘラと、その外の交わり】
 
 
この生きづらさ研究会は私が「メンヘラ.jp」さんの当事者研究会に参加したことにより発足したもので、けっこう記事を紹介してもらったり居場所データベースを利用させてもらっているおかげでメンヘラ界隈にいくらかかかわりがあるのでまあやってくる方も大なり小なりメンヘラ自認してます、みたいなところがあったのですが。
今回初めてそれほどその方面に接点のない、「映え」方面からの参加がありまして、私自身すごくその交流を楽しみにしていたんですよね。
当事者と、その周縁の人たち(という名の当事者たち)が対等に交わることで初めて環境が変わる、という信念のもとやっていますのでいろんな属性の人を巻き込んで楽しめたらいいな、と。
そんな思惑の中、みなさんが話し合い、お互いを聞き入れることで違いや共感を感じ、おそらく何かしらを感じて帰っていただいたことがなによりうれしかったんですよね。
もちろんそういった思惑はあくまで主催者である私個人のものなのでどう思いどう感じたかはそれぞれの胸の内にしかないのですが、それでもこの光景はうれしかったですね。
 
 
 
【執着しない、は生きづらさの究極の対処法なのか】
 
 
参加者のお一人の方が言っていた「とにかく自分は執着しない」という考え方、というか生き方。周りの私たちへのその丁寧な心情の吐露、説明が「すごいな」って感じたんですが。
執着を捨てることがメンヘラな自分を、いや、すべての生きづらさへの対処法なのではないか、と考えさせられるお話でした 。これまでの「家族」との関わり方が今の「恋人」との関係にも繋がってくる話でもあり、執着しすぎることの弊害をバランスよくコントロールしている「前向きな割り切り」のようなものに、生きづらさに対する一つの答えを見たような感覚でした。
私もどちらかといえば執着しないタイプなので(頑固なのは認める)、よって依存もなく、生きづらさも軽減される。
これって究極なのでは。
 
でも、「死にたい」という気持ちはなくならない。
 
きっと感情を全てなくせば生きづらさは感じなくなる。それは人間を、生き物をやめることにつながるのかもしれません。メンタルをやられて感情表現ができなくなっても、わけもわからなく涙がひたすら流れ落ちることもある。
もちろん執着したくなくてもできない、そんな場合だってある。わかっていてもできないことがある。
 
そういったものに、丁寧に向き合っていく。
 
誰かと向き合うのと同じように。
 
対等に、誰かと。対等に、自分と。
 
 
 
【生きづらさ研究会が好きすぎる】
 
 
ここから先は私の個人的な話なので、軽く読み飛ばしていただいてもいいんですが。
 
私、生きづらさ研究会が好きすぎるんです」
 
楽しくて楽しくて仕方がないんです。
 
よく参加者の方に、私がやっている傾聴ボランティやこの会に対して「こんなに時間も労力もかかってお金にもならないことをよくやりますね」って言われるんだけど。
 
全然オッケー。苦にならない。楽しい。
 
そういうとビックリされるのでもう一度言いますが。
 
「好きだから」
 
何が好きなのか。改めて考えてみた。
 
他者が私に、自分のつらさを話してくれることが好きなんじゃないかなって。
もっと正確に言うと「自分の気持ちや考えを話したり黙考したりすることで何かしらの変化を呼び込んでいる、その予感を感じさせている状態の他者を見るのが好き」なんですわ。
 
いわばその状態の他者が私にとっての「作品」になる。もちろん、これが私自身の思っている方向に誘導するのであれば危険だし誘惑、操作になるのでしょうが、そうじゃなくて「どういうふうに行くのかもわからなくて漂っている、ただし何かしらの苦悩や変化の予感を含んでいる状態」が好きなんですよね。
ワクワク感というか。開ける前のビックリ箱が持つ雰囲気というか。
 
わかります?
 
キモいですか(笑)?
 
なんかねぇ、書いていて思い出したんだけど昔から誰かと映画を行くと映画の内容も気になるけどそれと同じくらい「あ、このシーンはどう感じたかな?」っていうのを気にしながら見るのが好きだった。
美術館に行ったらその人と作品を一緒に遠くから眺めて、その人の頭の中に描かれているものも想像して全部まとめて愛でる、みたいな見方をして楽しんでいた。
 
まあ会の主催者があまり個人の喜びを前面に押し出してると誰のための会なのかブレちゃうのもいけないので、このくらいにして黙っておきますが(笑)。
 
なので、今後も心配していただいたり不思議がっていただいたりしても全然かまわないのですが、そういう理由ですのでいぶかしがらなくても大丈夫です(笑)。
 
あ、お金はもうけたいですけど(笑)
 
 
 
 
というわけで、今回の個人的な感想はここまで。
 
生きづらさ研究会そのものの今後についてもいろいろ思うところがあるのでそれはまた次回以降のブログで書きたいと思います。
 
 
 
お読みいただきありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 

「家族」について語ってみる。

第四回の生きづらさ研究会が今週末の7/28(土)に開催されます。
「メンヘラ.jp」の居場所データベースに登録したこともあり、おかげさまで定員に達することができました。ありがとうございます。参加を考えていた方には申し訳ありませんが、また来月半ばまでには開催予定ですので興味のあるかたはもうしばらくお待ちください。
 
 
と、いうわで今回は第四回のテーマの一つである「家族」について私の話をしようと思います。
当日話すことを先に書いちゃうのでお楽しみとしては半減なんですが(笑)、こうやって自分のつらさを外に出すことでも見えてくるものがあります。
事前に個人として考えてみる、それを会であらためて他人に話す。他の人の話を聞くことでも新たな視点や知識のアップデートが可能になる。そういったメリットがありますので一度事前に書き出してみるのもおススメです。
 
 
さて、私の家族の話ですが。
前回のブログで書いたんだけど親父の家系がメンヘラで、おばさんも入退院を繰り返してたので私自身もちょいちょい躁鬱でドカーンと爆発を繰り返してたんだけど、あるとき「これはもう家系だからしゃあない、自分のせいじゃない」ってなったら気持ちが楽になったし、傾聴ボランティアで他者への接し方を学んだら自分自身もなんかコントロールできるようになってきたので今はだいぶ楽なんですよね。
あと、お袋の家系がユーモアを持ち合わせてる、わりとなんでもあっけらかんと受け止め、受け流すタイプ(一言でいえば大雑把)なので、その性質のおかげで自分もこうして生きていけてるんだな〜って感じです。たぶんこっちの血が入ってなかったら自分も今こんなふうにして生きてないな、と思うんです。ユーモア大事。
 
というわけで、今はもうお袋しかいないし私自身が家族というものに対して思うことはそれくらいで「とくに家族に理想も怨念もなし」で生きてきたんですよね。
その「実際の家族」よりかは「血の繋がっていない家族」のほうでいろいろとありまして。
 
10年以上前の話になるんですけど、結婚して婿養子になってたことがあったんですね。その時も、私一人っ子なんですけどうちの血筋がそれで絶えることもなんとも思わなかったしお袋も「好きにすれば〜」って感じだったのでアッサリと相手の実家の息子になったんですよね。むこうは一人娘だったし、女系な家庭だったので「息子ができた!」ってことでそりゃあもう歓迎されましたよ。
だからこそ、別れた時がつらかった。彼女との別れもつらかったんだけど、せっかくできた新しいお父さん、お母さん、おばあちゃんを裏切ってしまったっていう気持ちですごい負の感情が押し寄せてきた。一生分くらい泣いたって思ってたけど、それでも涙は枯れることなくその後も流れ続けた。その別れた奥さんもメンタルやられててそれが一番の原因だったんですよね。当時はわたしも周りもまだそういったことに関しての対応の仕方も知識も一般には広がってなくて。その時の後悔が今もあって私がこういう活動をしている一因でもあるんですが。それについても、いずれ書くつもりです。
 
そんなわけで新しくできた家族にはうれしくてすごく満足していたんですが、これって私だけがその中で「他人だったから」ってこともあると思うんです。
いくら戸籍上は家族になったとはいえじっさいに血は繋がっていないわけですし、あれだけ「家系の存続とか、血筋とか興味ない」って思ってたんですけど、ずっとあの家庭の中では自分だけ違うという「孤立感、孤独感」はずっと感じていました。
でももし当時子供をもうけていたら、絶対「この子のことは俺がいちばんわかっている!この子は俺のもの!」っていう気持ちが芽生えていたと思うんです。だってその家庭で唯一自分と血の繋がった者だから。他は皆、他人だから。
 
それくらいの寂しさを持っていたんだな、と書きながらわかりました。
 
自分の中では「家族」というものは「血筋」とか「孤独、寂しさ」というものに関わる部分がキーであって、他はあんまり重要視していないんだな、って気づけました。いや、マジで書きながら気づいたわ。結婚してた頃のこともひさしぶりに思い出したし。
 
いやー、こうやって書き出してみるといろいろわかるね。会の当日はここまで自分のことだけについてしゃべる時間がないから、事前に書いてまとめておくと話しやすいかもしれません。
 
こういった考えに他の人の体験が重なるとまた別の見方や解釈も見えてくるので、そこも大いに楽しみにしてもらいたいですね。
 
 

「怖くなったら110番」の言葉と安心の希望

「メンヘラ.jp」のサイトに載っていたコラム『怖くなったら110番! 自殺未遂をして自分で警察に助けを求めた時の』を読んだら、自殺して亡くなった自分の親父のことを思い出した。

 

怖くなったら110番! 自殺未遂をして自分で警察に助けを求めた時の話 - メンヘラ.jp

 
 
コラムでは深夜に溺死しようと川に向かって進む執筆者の心情…恐怖や誰かに止めて欲しいという気持ち、見える景色が生々しく描かれていた。よく生きていてくれたという安堵と同時に、亡くなった親父との思い出がフラッシュバックしてきた。
 
一つは実際に亡くなる前に未遂をしたときの、行方不明の親父を探しに叔父やお袋と一緒に深夜の公園を探しに行ったときの光景だ。
「木からぶら下がってるかもしれないから上を照らして!」というお袋の言葉と共に闇夜に懐中電灯で浮かび上がる木々の姿。その発せられた言葉で一瞬本当に親父がぶら下がっているのが見えたような気がした、あの夜のこと。
もう一つは親父が実際に飛び降りた建物の、まさにその現場から地上を見下ろしたとき、あの吸い込まれるような感覚。
どちらもコラムを読んだ時に、死に向かう者の生々しい声で忘れていた情景が思い出された。
 
執筆者は自分でも怖くて誰かに止めて欲しいのに、それでもどうにもならなくてもがいている気持ちをしっかりと書かれていて、ああそういった気持ちでいるんだな、と。達観やあきらめといったものすべてにおおわれているわけでもないのだと。そんなギリギリの時までも「誰かに助けてほしい」という気持ちを持つこともあるのだと。
そんなときに担当医に言われた「110番しなさい」というとても簡潔で事務的な言葉だからこそ、ごくすくない労力でも可能だったのだろう。ただ一つの言葉を、行為をおぼえていたからこそ、この方は助かったのだろう。
いざ、というとき人は複雑なことはできなくなるから、こういったシンプルな言葉が役立つことがあるのだろう。
 
この方も実際110番をするのは怖かっただろうし、そのあとどうなるかもわからない。助かった後も「迷惑をかけて申し訳ない」という気持ちでいっぱいで、だからこそ余計に“よく勇気を持ってかけてくれたね”ってういう気持ちになった。
そんな執筆者に対して警察は決して責めたりはせず「いいんだよ、これも私たちの仕事ですから」という言葉をかけて余計な気づかいをさせずにしっかりと労い、安心させる。
 
誰かに助けを求める時、安心できる、安全が約束される、そんな希望があればまだ助けを求めようという気持ちになる。そんな場合もあるのだ。
 
私たちはあの時の親父にそういった希望を示せなかったのだろう。今ではもう、過ぎたことでありどうしようもない出来事だったのだとわかるのだが、やはりこうしてふとした瞬間にあの生々しさがよみがえる。
 
 
ギリギリの瞬間まで、実行者にも周りの人間にも、思いはあるんだ。
 
 

 

 

第4回生きづらさ研究会のお知らせ

生きづらさ研究会第四回のご案内です。
7月28日(土)14時〜17時、品川にあるレンタル会議室で最大定員8名で3時間語り合います(二次会もファミレスでやる予定です)。

 


今回は初の二部構成、前半一時間を【家族】について、休憩をはさんで後半一時間を【恋愛依存】についてみんなで語り合います。

それぞれのテーマにまつわる生きづらさや思いを誰にも否定されず、自分の困りごととしてしっかり話せる場で吐き出してみませんか?

前半と後半のテーマがだいぶ違う、もしくは特殊だっていう懸念があるかもしれません。とくに恋愛依存についてはですね。
これは
「自分の話をするだけでなく、誰かの話を聞くことでも自らの知見や考え方をアップデートできる、つながりを感じられる」
「少数派と多数派の偏見のない話し合いが外の世界(環境)を変える」
という思いのもとでやっていますので、自分には関係ないなとか話せるかなと考えている方にもぜひ来ていただきたいと思います。

前回までの様子や参加者とのその後のチャットのやり取り、約束事などもホームページに載せていますのでまずは雰囲気を知ってもらいたいと思います。
その上で参加したいな、とか聞きたいことがあればお気軽にご連絡ください。参加希望や質問はホームページやツイッターまで。


ではでは、お待ちしてます〜。

 

 

 

「生きづらさ研究会」ホームページ
 
 
主催者ぎりさんのツイッター
 
生きづらさ研究会公式キャラクター いきづらたん

 

 

 

 

パソコンが壊れた

困ったことに、パソコンが壊れちゃいました。iPhoneのちょう小さな画面に(デスクトップに比べたら単体では大きく見えていたスマホ画面も小さく見える)キーボードでちまちま入力しています。

これは…まったく長文を打つ気がしない(笑)! 画面が小さいってだけで一つのまとまった文章を構築する、凝ったサイト(見せ方)にする、なんて気が起きずになんか「さっくりと伝わればいいや」って気分になる。「どうせみんなスマホでチラ見して終わりでしょ」みたいな。
うーん、みんなが「スマホですます」って考えると発信の仕方やコンテンツの潮流が初めてわかってきた。

そもそも文章を書くのがめんどくさい(笑)。
インスタやラインなどで短文、写真や縦長の短い動画、スタンプですませるのもすごくよくわかる。
だってその方が便利で簡単だから。そう最適化されてるから。
ツイッターでいっぱい書くんだったらブログの方が過去記事もちゃんとたまっていくし見やすいのでは?」って思ってたけどスマホだとブログは書くのも見るのも重い。ズバッと言いたいことだけ言えて終えられる物の方が圧倒的にスマホ的だ。

あー、もうここまで書くのも疲れた(笑)
来月には何かしら購入すると思うんだけど、強制的にスマホのみの生活になることで「自分の発信していることもスマホから見ている人が大半なんだ」って考えるとなんかスマホだけでもいい気がしてきた(笑)
そりゃ個人のホームページやブログが減るわけですよ…
やっぱりいまは「スマホ的な人と人とのつながり」を意識しないといけないな…

なんかはてなブログすらも「重い」って感じる。ツイッター感覚で過去記事が見えやすかったらブログじゃなくてもいいやって思える。
スマホが、ツールが人間の思考や動向を決めてるなって体感できる出来事でございますわ。