生きづらさマガジン

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第2回アライさん研究会を終えて 自分のやりたいことと、会のこれから

アライさん研究会のアライさんとして、集まった4人で会を開きました。テーマは決めず、ザックリと語る会でした。

感想はツイートしたので、気になる方は下記のツイートからさかのぼってみてください。

こちらのブログにも今後の方針を載せるのは、今後アライさんじゃない人にもテーマを見て自分も当事者だと思った人に来てもらいたいからです。

 

 

 

 

 

 

8月3日、高田馬場の喫茶店にて第2回アライさん研究会が行われました。
会でのわたしの思いや感想はツイッターで当日の夜たくさん述べましたが、わたし自身も久しぶりの主催者としての立場と皆で語り合った後の高揚感ですごく熱っぽいツイートをしていたと思います。
そういった感覚的な部分は出したので、こちらのnoteでは改めて会で起きたことを踏まえた上で、今後の方針のようなものを書いていこうと思います。

 

 


【わたしの理想は】


今回の会では事前にテーマを決めることもなく、また初めてアライさん同士で集まって話すということでわたし自身けっこう様子見なところもありました。アライさん界隈特有のルールなり規範なりがあるかもしれないとか、ツイッターというSNSで集まる、いわゆる「オフ会」という感覚でやって来る人との認識の違いがあるかもとか、けっこう手探りな状態だったんですよね。
他のオフ会というものに参加したことがない(今まで参加した、主催した会も「当事者研究会の亜種」というイメージだった)ので比べようがないのですが、今までの会同様「好きなように話して、それについて考える」がメインになりました。まあわたしが主催なんで「わたしがそうした」んですけどね。そうなるように事前にnoteなりツイッターなりでわたしの思いや「約束事」をしっかり知ってから来てもらえるようにはしていました。今回はテーマもなく、ホワイトボードもないので手元のノートへの書き込みだったのでなおさら集まって話したいことを話すということに特化した会だったな、と思うんです。それはそれで各々感じたこともあったでしょうが、わたし自身は「これもいいけど、今までもやってきたとこだから、もっとアライさんという事象を活用して、なおかつもっと有意性や継続性を含んだ実践的な会をやりたい」という欲も終えた後ありました。一言で言えばもっと「スゲェ」「また来たい」と思われる会にしたい、ということです。
さらにはこの会でもわたしの傾聴ボランティアとしての経験や思いが参加者の興味や役立ち、自分自身の使命とも重なってその部分でも欲になっていたので、まとめると「当事者研究会の実践性+アライさん現象の持つ効果+傾聴のすごさ」を体現した会をしたい、それこそをアライさん研究会の行く道のりにしたいといういことです。

 

 


【まずは当事者研究会の良さを取り込む】


傾聴のすごさ、効能はわたし自身が一番自信を持って語られる部分です。アライさん、アライさん界隈のことについてはツイッターという表現方法と合わせてまだわたしがよくわかっていないところなので現状はそこまで語りません。
なので今すぐに取り込めるものは当事者研究会についてなので、次回の3回目までにこの部分での上乗せをして実践しておこうかな、と思います。
当事者研究については過去にけっこう勉強したのでいろいろと考えがあるのですが、まあ時間もないですし次回までにざっくりと「基本的な部分はいただいておこう」というスタンスです。
手元の本を参考にしつつ、当事者研究会の基本的な部分をいただいちゃいます。

 

 


〈当事者研究会におけるファシリテーションの8つの特徴〉

 


①自分自身を開いて仲間と共有するー弱さの情報公開


②自分の問題を自分の外に出すー外在化


③興味・関心によるワクワク感ー知的好奇心


④仲間の知恵の伝承ー蓄積と継承


⑤自分助けとしての症状や問題を扱うー有意味性


⑥発見を祝うー祝福


⑦目的意識をゆるめるー価値中立性


⑧先行して警戒を解くー武装解除

 

 


①の情報公開は、まさにアライさん現象の特徴に一番合致するのではないでしょうか。アライさんたちはまず自らの名前を「〇〇なアライさん」として自らの情報を、多くは弱さを開示します。そしてそれを共有していくことで研究成果だけでなく心強さや頼もしさといったものを感じられるのも当事者研究の良さであり、ツイッター上でそれらの感覚を意識的・無意識的に味わえているアライさんたちも多くいると思われます。
せっかく会に来る前から、さらには来なくてもこうした情報公開をしているアライさんたちだからこそその部分をもっと意識的に活用していきたいと思うんですよね。
わたしが考えいてる方法として「ハッシュタグをつける」ことでより本人や周りがそれを意識しやすくなるのではないかということです。
次の回のテーマに沿って事前に「#会話の仕方がわからない」「#性別違和」をつけて情報公開していく。それによってすぐにでも仲間との共有が生まれるかもしれません(もちろん特定されたくない人、秘密にしたい人ははやらなくていいです)。

 


②の外在化も当事者研究における重要事項ですね。生じている問題から距離をとって眺めること、具体的に目で見て皆で共有するためにも大切なことです。今回自分用の普通のノートを持って行っただけなので、次回はやはり皆で共有しやすいよう大きなスケッチブックを持っていく予定です。ノートの内容もきちんと書いていけば個人を特定するようなものは載らないはずなんで、可能であればウェブにもアップしたい。
ただ、わたしほんとうにノートを取るののが下手かつ、しばらくは進行役を務めることになると思うので参加者の誰かに書記をお願いすることも必要かと。 

 


③わたし自身ははもうだいぶ慣れてできてきているとは思うのですが、やはり会を重ねること、参加者が継続していくことでこうした「興味・関心を尊ぶ空間づくり」はもっとできていくと思います。悪い部分を捕まえて「治したい」「なんとかしたい」という構えでなく、相手を尊びその仕組みを知りたいという構えを取る。研究的態度を共有し、その先にある発見にしっかり備えたいですね。

 


④仲間同士の横並びの対等なつながり、それはわたしの傾聴体験から重要性を感じていられるのですが、こと「歴史的・経験的な積み重ねや価値観を伝承する縦のつながり」となるとこれまで着手してきませんでした。どうしてもその場の雰囲気、体験重視で研究成果の発表、積み重ねをしてこなかった、これからはそういった部分も注力していきたたいと考えています。
とりあえず次回は外在化したノートの発表と会の最後に各自の「本日の気づき・今後やってみたいこと」を聞き、次回に「できたこと、できなかったこと」を発表するというような、より実践的な流れができたらと思います。

 


⑤「症状を自分助けと捉える」のは、もしかしたら傾聴にもつながる考え方かもしれません。傾聴は聞くことで本人が考える。問題を「聞く」が人と問題を分けること、そうとらえる聞き手の存在が、症状を「悪いもの」として認識する以外の手立てがあることに気づかせてくれる。
独りでの思い込みが共有されること、研究されることで変質していく。じゃあどうなるんだろう、実践してみよう、となっていく。そういう流れを作りたい。

 


⑥祝福されたものは、尊厳を取り戻す。わたしはその部分が弱い。もっと他者を褒めたい。というか素直な表現者になりたい。第2回の会で、「重い話をしてくれてうれしい」という言葉が出た。それも良き言葉であるが、あくまで自分自身の気持ちだ。プラス、「そんな重い話が言えたあなたと、それによる変化を祝福する言葉」が自分から出ればよかったと思う。
そういう場面があったら積極的に褒めていきたい、そういう雰囲気の会でありたい。

 


⑦ここまで読んでくるとなんだか会がやるべきことでからめとられるのではないかと思われるかもしれませんが、間違いないくこれらをやっても会はとても自由だと感じてもらえるだろうという自負もあります。だってあなたを自由にする、楽にする会だから。多くの人の発言を聞いているだけで発見がある。即興やハプニングを大事にする。わたしはそれを「ライブ感」と呼ぶ。皆のバイブスがあがっているのだ。楽しいのだ。安心して正直に話すという流れが、それを生み出すのだ(急にアライさん口調)。

 


⑧専門家の技術や知識を持ち込まない、丸腰で人と向き合う。そこから生まれるものを大事にする。専門性や知識の場ではない居場所の出来ること・面白さを伝える。

 

 


このような感じで、具体的に次回までにやること、次回の会で意識していくことも見えてきたのでまたしばらく界隈を眺めつつ、より「そそられる会」にしたいと思っているので、アライさん、そうでない人含めて楽しみにしてもらいたいです。

 


次回は8月17日14時から17時、池袋のカフェ「ペコリ」にて、テーマ「会話の仕方がわからない」「性別違和」でやっていきます。
質問や参加希望はコメントやツイッターのDMでお願い致します。

 

 

 

アライさんになって3週間が過ぎたのだ。

結局そこでも研究会開いたりしてるのだ。

 



 

「レンタルなんもしない人」さんの著作を読んで考えた傾聴ボランティアの価値

どうも、傾聴ボランティア団体に所属しているぎりさんと申します。
皆さんは「レンタルなんもしない人」さんをご存知でしょうか。交通費と飲食代(必要なら)だけで一人分の人間の存在を借りることができるというサービスです。


レンタルなんもしない人 (@morimotoshoji) | Twitter

 

 

〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。: スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと
 


そんなレンタルさんの『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。』という著作を読み、今の社会における何もしないことの価値や「ただ話を聞くだけ」に関するところが傾聴ボランティアにも通ずるところがあったのでその辺を書いていこうと思います。


傾聴ボランティアというのは「特定の対象者に対して傾聴をするボランティア」です。傾聴とは辞書的な意味なら「しっかりと話を聞く」というだけですが「それだけで何か変わるの?」と思われる方も多いと思います。
そういう意味ではレンタルさんのなんもしないでただ居るだけにおいても同じことが言えるでしょう。それだけ今の社会は「聞くだけ・居るだけ」といった非生産的なことに対して価値がないと思われています。いちおうボランティアもレンタルさんも「無報酬」ですからこちらもお金目的でやっているわけではないです(もちろんお金が必要ですが、それが目的ではありません)。じゃあなんでやってるんだ、対象者である我々になにをやってくれるんだ、与えてくれるんだとお思いでしょうがそういう彼岸に行くことが大事であるし、まあぶっちゃけ言ってしまえば、もちろん「何か」はあるんですよね。

 

 


【関係性が苦しいんだ】

 


人間関係の話をもう少し続けると、一般的に、大事なことは大事な人、つまり友人、恋人、家族といった身近な人や親しい人にしか話さないものだと思われがちだ。それは子供のときも、大人になってからも変わらない。しかし一方で、人間関係が薄い、もしくはほとんどが無関係な相手にこそ話せる大事になことも、世の中にはたくさんある。僕はそれを「レンタルなんもしない人」のサービスを始めてから知った。
 要は、関係性の深さと話の深さは必ずしも比例しないし、親しい間柄だからといって自分をさらけ出せるかというとそうでもない。むしろ親しいからこそ口をつぐんでしまうケースも少なくないのだ。
 事実、僕のところに来る依頼には「話を聞いてほしい」といった類のものが思いのほか多く、そのなかには「なぜ赤の他人である僕に?」と首を傾げてしまうくらい、ヘビーな告白もいくつかあった。

 


レンタルさんは“相談というのはなにかを期待されている感じがするし、なにかをしているような感じもするので難しいです。話を一方的にただ聞くだけなら可能です”と返しているそうです。
傾聴ボランティアでもこの部分はほぼ同じです。相談やアドバイスが欲しければ専門の機関や身近な直接関わりのある人に言えばいいだけです。そうじゃない何かがあるから無関係の我々に言ってくるんですよね。そのそうじゃない何かのために、我々がいる。そこに必要性がある。サービスとしての価値がある。
…もちろん相談者も混乱していますし、そもそも会話の一発目でそんな心の深奥を述べることなんでまず不可能ですから、話の入りとして「相談がある」という言い方をするのはよくあります。その奥にある何かに早くお互いがたどり着く。そのための工夫を傾聴ボランティア員は学んでいるんです。その工夫、コツこそが「聞く」と「傾聴」の違いであり逆に言えばそれだけ我々が普段やっている「聞く」という行為が余計なノイズ…先入観や思い込み、普通はこうだという概念によって阻害されてるということです。
これを取っ払って聴くというのはとても難しいことだと実際ボランティアをやっていて思います。

 

 


【受け答えの必要性。自己解決を目的としない】

 


このように「何もしないこと」をあえてやるための工夫、というのが必要になってくるのですがそんなレンタルさんでも思わず「やってしまうこと」もあるようです。
相手の話に関心を持ってしまって会話が盛り上がってしまったことがあり、なんもしない線引きはきわめて曖昧であり、、相談に回答や助言を求められる場合はやらないとされています。レンタルさんは「例外としてやることもあるよ」という感じで書かれていますが、でもこれも実は「何もしない」ことで「何かを発生させる」ことにもなるんですよね。
私は以前自分が無くなりたいと思っていました。先入観や思い込みで相手の素直な気持ちを聞くことができないのなら自分というものを消し去ってしまえば完璧な傾聴ができるのではないかと思ったからです。そうして出来上がったものはただの「うん、うん、そうだね」のうなずきマシーンでした。こんな相手に話をしたところで、相談者は「この人全然聞いてくれない、わかってくれない」と思うだけです。


レンタルさんが傾聴ボランティアについて書かれている箇所もあります。

 


「傾聴」という行為には「相手への批判や反論をしない」「聞く側の考えを押し付けない」といったポイントがあるらしい。僕は依頼者が求めるまま、必要がなくなるまで、ただそこにいるだけである。だからこの二つに関しては「〜しない」という部分が、はからずも「なにもしない」僕と重なって、結果的にクリアできている

 


ただその後にも“問題を自己解決できたか否かは知る由もない”と書かれていて、傾聴とは依頼者が自己解決するためのものだと思われているようです。もちろん傾聴ボランティアは自己解決をするためのものではないし、そもそも自己解決をさせようと思って話を聞いていたらそれはもう傾聴ではないんですよね。自己解決させたいというスタンスで聞いていたら相手の気持ちに寄り添えないんです。もちろん結果的に自己解決できればそれでいいのですが(レンタルさんもそう書いている)、そんな簡単にいかないからこそ勇気をふりしぼってボランティアを頼ってくるんです。
傾聴にとっても「なにもしない」を心がけるのはとても大切なことなのです。

 

 


【傾聴や「なんもしない」をすることによる変化】

 


でも、いなくてもいいけれど、そこに誰か一人いることで、依頼者の気持ちに変化が起きていることはたしかなようだ。そう考えると「レンタルなんもしない人」は〝触媒〟みたいなものとして機能しているんじゃないか。

 


傾聴も「なんもしない」も、実際は誰かに話を聞いてもらっているし誰かがそこに居ます。聞いてもらうことで不安や恐怖がおさまり気持ちが安心する。居ることで依頼者にとってはそれが「見守り」「同行」になり何かがはかどったり遂行されたりする。それは苦しみや困難から逃れられる・解決する状態を作り出します。ひょっとしたら立ち向かう勇気すらわいてくるかもしれない。そういった困難や苦しみが今の自分には必要なことであり受け入れ方を変えることで安心が訪れるかもしれない。
そういった様々な変化が期せずして起こる。それを狙ってやることは難しいし、もし狙ってやりたいという所までいけてるのであれば専門の機関を頼ればいい。


そういった狭間にいる人たちにとってただ聞く、ただ居るだけの人たちというのはきっと価値がある。だから困っている人たちを見て「自分はそばにいることしかできない、話を聞いてあげることしかできない」と思っている人がいたら「それでいいんだ」と思ってほしい。それでしかできない何かが、そこにはあるから。

 

 

『違国日記』②第3話

混乱する朝に足湯を用意し、とりあえず落ち着かせる槙生。
卒業式をバックレ、親友のえみりともケンカしたと話す朝。卒業式はともかく学生時代のころからの友人は大事にしといた方がいいと、自分と奈々との話をする槙生。槙生の高校卒業時、奈々がくれた手紙の話をする。

 

 

 

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その手紙を読んだ時、生きていていいんだと思えたと槙生は話す。

 


えみりといたとき、えみりが「朝といるときだけほんとのあたしっぽい」と言ったことを思い出す朝。
心配して何度もラインをよこすえみりに電話をかけ、朝は泣きながら今度お父さんとお母さんの話をさせてとつぶやくのだった。

『違国日記』②第2話

遺品を整理した翌日、朝の卒業式の日。終わる中学の生活から高校への想いをつのらせて登校した朝の元に親友のえみりが思いつめた様子で声をかけてくる。そこで朝はえみりの母が連絡網を回し、朝の両親が亡くなったことが学校中に知れ渡っていることを知る。
先生たちにもあれこれ言及され、朝はついに自分じゃいられなくなることに逆上する。

 

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「えみり最悪」「大ッ嫌い」
友に暴言を残し学校を去る朝。自分の気持ち、感じ方は自分だけのもので誰にも責める権利はないという槙生の言葉が頭をよぎる。泣きながら無心で足を運んだ先は遺品を整理したかつての実家だった。そこまできてようやく自分が帰る場所ではなかったと気づく。
「…どうやって帰るんだっけ…」と自分の戻る所があやふやになる朝。

 


帰りの遅い朝を心配をしている槙生の元に、ようやく機嫌悪く帰ってくる朝。苛立つ朝に槙生は言う。


「朝。わるいけどこの家に一人になれる場所はない」
「わたしはあなたに何かあったんじゃないかと思ってぞっとしたしあなたとわたしの間の感情には関係なくあなたを気づかう責任がある」

他人の気持ちは責めない。でも他人に対しての責任を持つ。他人に対して冷たいように聞こえる槙生の言葉も、見捨てる・無関心の意味ではなくきちんと見守る覚悟がある上での発言だった。


「どうした」と聞く槙生に朝は答える。

 

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